アルペンスキー・ワールドカップの歴史
 1・南十字星のもとで 2・ナポレオンとギロチン 3・狂気の70年代
3 狂気の '70年代
 1969年2月8日、コルチナ・ダンペッツォ(ITA)の滑降レース。ヨス・ミンシュ(SUI)はゼッケン13番でスタートしたが、この不吉な番号はミンシュに幸運をもたらした。それは長い間待った上に訪れた幸運であった。このクロスタース出身の機械工は1年前のウェンゲン(SUI)のラウバーホルンレースで凄まじい転倒をして骨盤骨折の重傷を負った。それはコース最大の難所、スタートして1.8キロ地点にある狭い岩の間のフントショフのジャンプ、それに続いてあるもう1カ所のエアターンジャンプでの大転倒であった。この場所は後に彼の名を取って「ミンチカンテ」と名が付いたが、そのアクシデントを乗り越えての初優勝は実に見事な復帰であった。これはスイスのワールドカップ滑降に於ける15戦目の初勝利でもあった。
 1年後の1970年1月24日、20歳になったばかりの、ミッシェル・ボゾン(FRA)がメジェーブ(FRA)の滑降レースで転倒、矢来の防護策に激突して重傷を負った。43分後にはサランシェの病院で手術を受けたが、肺挫傷、頭部挫傷などが致命傷になり死亡した。
 ミンシュとボゾンの事故の間には何ら関係はないが、実は繋がりがあった。それは「狂気の'70年代」の幕開けを告げる象徴的な出来事だったのである。

デブの発明家と転倒パイロット

 彼らと時を同じくして二人の愛すべきピエロが横の入り口から「白いサーカス」のテントに入ってきた。オーストリア生まれのイタリア人で「軍隊」に籍を置くエルヴィン・ストリッカーと、リエンツ(AUT)から来た「煙突掃除夫」ヴェルナー・グリスマンである。
 ストリッカーは彼のデビュー('72年1月、キッツビューエルの回転10位)での出来事は素晴らしいものだったと感じている。後に彼はこう語った。「私がゴールしたとき、まるで勝利者のように祝福を受けた。私はといえばビール樽を腹に抱え、そして煙草に火を付けた」。
 一方グリスマンのデビュー('72年12月、バルディゼールの滑降で大転倒)は彼にとっては嬉しくないことだった。「病院で目が覚めたときは何が起こったのかちっとも分からなかった」。

 ストリッカーとグリスマン。この二人は実によく似たキャラクターを持っていた。髭もじゃのデブで、少し気の変な、減らず口をたたく発明家。そしてトレーニングの怠け者で骨折のパイロット。レースでは中間計時のチャンピオン。この二人のコンビはまるでヨーロッパで人気のあった喜劇映画「ラウレルとハーディー」のようであった。彼らは当時スポーツだけでなくほかの生活(キャラクター)を持つ象徴的存在だった。
 グリスマンは言う。「キッツビューエルの5時のお茶の時間は我々に義務付けられていた。それは我々がろくな事をやらなかった時間だ。そしてトレーナーにとっては、我々をどこからか見つけ出さなければならないと言うより、見ないふり、知らないふりでいた方がどれだけましだったかという時間」なのであった。
 時はまさに変革の時代でマテリアル(機材、用具、ウェア)は全速力で変革へと突進した。グスタボ・トエニ(ITA)、ベルンハルト・ルッシ(SUI)、ローランド・コロンバン(SUI)などが君臨し、同時に「クレージー・カナック」の信心深い「ジャングル」ジム・ハンターや要領の良いイタリア人、そしてグリズリー(灰色熊)など、個性豊かなレーサー達の全盛期に入ったのである。
 「彼らはそれぞれが独特のスタイルを持っていた」とグリスマンは言う。「それは今日では見られないキャラクター(個性)の持ち主ばかりだった」と。
 時はまさに「皆がどうしたら如何に多くの金を稼ぐことが出来るか」を考え始めた時期であり、利口者は早くからそれに気づいていたし、その影響もメディア如何によることを知っていた。
 「私はグスタボ・トエニと同額の固定給料を貰っていた」と一度も勝ったことのないストリッカーは誇りを持って言う。「彼は走った。そして私は表彰式までにゴールにたどり着けば良かった。私はオリンピック・ゴールドメダリストの横に立った。人々は聞いたものだ。誰ですか?トエニの横にいるのは」。
 毎日トレーニングの後でグリスマンは冗談を飛ばして皆を笑わせた。「0から100までの瞬間加速で何が一番速いか分かるか、フェラーリかな、本当にフェラーリだと思うかい?」そして彼は答えを言った。「グリスマンだ。もし秤の上に乗ったらだ」。それは彼の最も得意とする冗談だった。
 ストリッカーはグリズリーについて「彼は時々一晩中頭を痛めたことだろう」と思った。レースの翌日、グリスマンは経過について得々と語らねばならなかったからである。だがストリッカーの場合は簡単だ。レースのアクションとは「転倒」であり、それは誰にでも練習できるというものではない。「誰も私のようにこれほどたくさんの転倒レースをやったレーサーはいない」と彼は言うが、それは凄い、素晴らしい転倒のヒットパレードだった。転倒者のリストには彼のほかにコンラッド・バルトルスキー(GBR)からデーブ・アーウィン(CAN)、そしてクラウス・ガッターマン(BRD)に至るまで大勢の転倒パイロットの名があるが、これは当人のみならず、誰の目にもまだしっかり焼き付いて残っている。
 「キッツビューエルでゴールしたのはただの2回だけだった。私は最低のスキーヤーだったから、他のスキーヤーよりも冒険をしなければならなかった。そして凄まじい転倒がテレビに映ることは2位になるよりもましなことだった」。だが負傷に対する恐怖は?という質問には「転倒とは素晴らしいものだ。私は”マチョス=英雄”になる。それは嬉しいことだったし、それを超えて状況を正確に分析し再び立ち上がったとき、幸福感でいっぱいだった」とストリッカーは語っている。
 コルチナのある老歯科医は現在重病で病床にあるが、長年ストリッカーの治療を担当していた。如何に苦心、工夫してストリッカーの口の中を修理したことか。「ストリッカーの最初の歯を修理した男」として銅像が建ってもおかしくないほどだ。如何にしても忘れることは出来ないだろう。

スパイが跋扈!?マテリアル戦争

 滅茶苦茶な着地だけが彼の人気を煽ったわけではなかった。カミカゼレーサーと呼ばれたストリッカーは非常に繊細な、そして発明家のレーサーでもあった。
 「バルディゼール(毎年開幕戦の舞台になっていた)でカメラマン達は長い列をなして私を待っていた。彼らは知っていた。なぜなら私が例年のごとく何か新しいものを持ってくるからだった」と説明した。彼が最初にムーンブーツを持ってきたときは、皆仰天して大笑いしたものだったが、やがてバルディゼール中のスポーツショップからムーンブーツは消えてしまった。後日ストリッカーは同僚のステファーノ・アンツィ、ジュリアーノ・ベソンらとともにマテリアル・コミッション(装備、用具に具に関する担当役員)としてイタリアチームに留まることになった。
 ストリッカーはローランド・トエニ(グスタボ・トエニの従弟)、タイラー・パルマー(USA)等とともに、彼自身も「スラロームの狂犬達」と称していたが、彼らの膝は嫌というほどポールに打ち当たり、傷は絶えることがなかった。そこでストリッカーは膝の保護のために「膝当て」を発明、その後はスラロームパンツの中に縫い込まれるようになった。パルマーの初勝利は'71年、サン・モリッツ(SUI)のスラロームだったが、彼の左の膝のカバーには"Make love not war"と上書きがしてあった。

 そして当然の事ながら、ダウンヒルに於いても「マテリアル戦争」は起こった。
 1970年、ベルンハルト・ルッシ(SUI)はバル・ガルデナ(ITA)の世界選手権でダウンヒルのチャンピオンとなった。彼のスタート番号は15。サービスマンはそれぞれスタートとゴールにいた。その時のトレーナーはジョルジュ・グリューネンフェルダーだったが、彼は数人の選手の滑りを見て緊急指令を出した。
 「ワックスを削り落とせ」
 それが勝利につながった。この秘密は1年近く経った後で、ルッシ同様スイスダウンヒルチームで色々工夫を凝らした男の一人であるワルター・トレッシュが漏らした。当時スイスチームにはワックスのスペシャリストとしてパウル・ベリンジャーがいた。彼はワックス落としの秘密についてこう語った。
 「メジェーブのシュプールの上で1日中テストを行なった。私は確認した。スキーは湿雪又は新雪に於いて、一度塗ったワックスを滑走面まで削り落とした場合、1分間に2分の1秒ずつ速く走ること。繊細な技術を持って手入れをしたスキーは、それによってより以上の効果を上げる」と。
 トレッシュは説明した。「そしてもし、スタートで誰かに聞かれた場合は、我々はスキーにワックスを塗っていなかった。それはただのトレーニング用のスキーなのだと答えたのさ」。
 秘密は長く保たれることはなかった。もしトレーナー達、ハンス・シュルネッガー(スイス・ヘッドコーチ)やチャーリー・カー(オーストリア・ヘッドコーチ)が、秘密作戦のため全てのスキーに自ら刷毛を持って塗ったところで、敵方のスパイ行為はそれにともなって発生する。
 ストリッカーはまざまざと思い出す。「私は一度リビーニョ(ITA)で盗聴器を買った。それをスイスとオーストリアのワックスルームに取り付けた。オーストリア人は滑走面をガラスペーパーで擦り落としていた。私はそれを更衣室のロッカーの裂け目から見た。私はつぶさに観察した。そしてスイス人やオーストリア人が彼らの削り落としたワックスをどこに捨てるのかを見届けた。それからそのワックスの屑をかき集め、溶かして我々のスキーに塗ったのだ」。

ウェア狂想曲と迂闊者達の週末

 考えられないほどのウェアの変革は、今日、当時活躍したレーサー達に「我々は愚か者だった」とも言わせるほど大きな影響を及ぼした。
 狂気の70年代は、スキー、ワックス、レーサーの勇気、それらが成果を上げたのみではなく、ダウンヒルウェアが大きな影響を及ばしたのであった。イタリアの中級のダウンヒルレーサーであったマルチェロ・バラロ、ステファニー・アンツィ、エルウィン・ストリッカーそしてアンチ・ベソン等が突然世界のトップに進出し、それが何故なのかを誰も気付かなかったのである。当時を思い出して誰もが、グリスマンまでもが「我々は迂闊でバカだった」と言う。
 ストリッカーは「いわゆるラックアンツーク(ラッカーを塗ったダウンヒルスーツ)の効用についてはすでに1969年にステファーノ・アンツィが発見していた。だが当初はまだ伸縮性が少なかった」と語る。
 1973年12月のバルディゼールでヘルベルト・プランク(ITA)はラッカーを塗り立てたウェアで栄光の表彰台に立った。だがその時はそれを見て叫んだものは誰もいなかった。しかし1年後のバルディゼールではオーストリア人とドイツ人はイタリア人と同様にラックアンツークのウェアを着用してきた。しかしスイス人はまだ眠っていた。カナダ人はといえば、マテリアルについて絶えず嘆き続けていた。エルンスト・ホラート(SUI)はイタリア人からラッカーを塗ったウェアを手に入れ、それを着用してトレーニングのチャンピオンになったが本番ではまったくチャンスがなかった。彼はスイスチームご愛用の「パジャマ」を使用しなければならなかったからだ。そしてトレーニングの成果を本番レースに置き換える能力のないレーサーと評価された。
 「その頃には私も分かっていた」とルッシは思い出す。「フランツ・クナイスルが電話をよこした。”そのウェアがここにある。これにより1〜2秒のタイム短縮が可能だ”と。だが私はその提案を辞退した。最終的には我々は分厚い”パジャマ”の風洞テストを行なった。結果は悪くなかった。レーサーは測定の際クローチングのみで行なったからだ。その場合は差は少ない。だが立ち上がって身体をオープンにしたとき、プラスチックのウェアはその効果を現わし、勝つことの可能性を持つ」。
 2ヶ月後のキッツビューエルではアンツィとベソンは2位を分かち合った。1位はラッカーを吹き付けたウェアを着ていたローランド・コロンバンであった。その時スイスにも光明が差した。アンツィはゴール前の急斜面でクローチングスタイルをとらなかった。12月のバルディゼールにおけるプランクと同様にラックアンツークのウェアで仲間同士同じ順位に付いた(プランクは4位)。
 しかしプラスチックウェアは翌'74、'75シーズンから禁止された。理由は高速で転倒した場合、レーサーがブレーキを掛けることが出来ない、というものだった。この規制に対して西ドイツのあるレーサーはただウェアを裏返しに着て出てきた。オーストリア人は素知らぬふりでウェアの裏(中側)にラッカーを吹き付けた。スイス人は着やすいパジャマに戻った。だが苦々しい苦渋の時を体験しなければならなかった。ルッシはガルミッシュの下部のカーブに於いて1.7秒もクラマーに遅れ、ウェンゲンでクラマーは3.54秒の差をプランクに付けた。これは1〜2位差の最高記録として残った。
 1週間後ルッシからそのだらしのない、情けない状態について説明があった。
 「前年のキッツビューエルでスイス人は恐怖のウェア着用を強制された。それは身体が呼吸できないというものだった。スピードという点では成功だった。私はトレーニングは制した。本番のレースでは同僚のルネ・ベルトーは私と同じスキーでゴールし、クラマーに100分の68秒遅れただけだった。私は15番でスタートした。マウスファーレでは少し大きめのラインを取った。衝撃を避けるためだった。シュタイルハングへの入り口では立ち上がろうとした。カーブでのスピードを緩めるためだった。だが新しいウェアはまったく制動が利かなかった。そして私は捕獲網の中に直行してしまった」。
 そこに横たえられた敗北者はその理由を判断した。それは空気の流通の変化によりウェアが如何に加速するかということであった。ルッシはウェアの禁止令に対しては依存はなかった。皮膚に如何に不健全であるかが同時に判明したからであった。汗はただウェアの縫い目からのみしたたり落ちた。

 FISはウェアの空気通気量に関する規定を設置した。これを持って時代は終末を告げ、トリコットウェア着用でのレースでは実力のあるレーサーのみが成績を維持できるものとなってしまった。
 狂乱の70年代はこうして終末を迎えた。グリスマンの冗談を聞くこともなくなった。
 「5時のお茶の時間に集まるレーサーはいなくなった。今日では皆運動靴でホテルの中でダラダラとしているだけになった」と、グリスマンは絶望的に語った。
ワールドカップ・グローブ
ウェンゲン・ミンチカンテ
エルヴィン・ストリッカー
ヴェルナー・グリスマン
ベルンハルト・ルッシ
フランツ・クラマー
ヘルベルト・プランク
デーブ・アーウィン
ローランド・コロンバン
グスタボ・トエニ
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