目の前で自分自身を見つめていたカール・シュランツ(AUT)は当惑した。「駄目だ」彼は考えた。それはメタリックに輝き、細く体にぴったりの、まるで宇宙人のパジャマのようなウェアであった。こんな格好では人前に出られたものではない。彼はまた脱ぎ捨てた。しかし宿舎のアルペン・ローザ山荘を出るとき「いいや、一度だけ違ったウェアでもよいだろう」と考え直した。同僚のゲルハルト・ネニングとエゴン・チンマーマンは、フィッシャーとケスレーの早い板を履いていた。トレーニングでは危うい思いをさせられた。彼は部屋に戻り、そして肌にぴったりの、まるで第2の肌のようなウェアにスタート番号を付け、その上にプルオーバーを着込んだ。
シュランツは「コルマー」のプルオーバーをウェンゲン(SUI)ラウバーホルンのスタートで脱ぎ捨てた。その時点でレースの相手達はすでにびっくり仰天していた。ゴールではジャーナリストたちの間で「ジェームス・ボンド・ドレス」が話題の的になっていた。そしてこのシュランツのウェアは、宣伝広告をウェアに取り付けることになった始まりでもあった。
'60年代中期のアルペンレースでは、ダウンヒルに於いてはレーサーの勇気とテクニックが重要であり、ワックスが上手く合った場合が幸運であると考えられていた。シュランツのウェアは、速いレースをするためにはダウンヒル・ワンピースがいかに大切かということが立証された最初であり、その後常識となり大いに研究開発されたきっかけでもあった。
「時は来た、準備は万全」
シュランツは1966年1月16日、快晴の冬の日差しの中でラウバーホルンのダウンヒルに勝った。後にラウバーホルンの父とも言われたエルンスト・ゲルチ(故人)が回想したように「それは誰も打ち負かすことが出来ないレコード(平均時速84km、最高時速100km)」を打ち立てての勝利であった。(※このときのシュランツのタイムは3分02秒76で、それまでのコースレコードは'61年にギィ・ペリラ(FRA)が出した3分13秒90だった。シュランツは'69年に3分01秒60で自らの記録を破ったが、その6年後、フランツ・クラマー(AUT)が2分35秒19という驚異的なレコードを記録して新しい時代を築いた。現在は'97年にクリスチャン・ゲディーナ(ITA)が記録した2分24秒23である)
ラウバーホルンのレースはすでに25年前からキッツビューエル(AUT)のハーネンカムレースと同様、選手にとってはシーズン中の最高の目標であったが、それでも確立されたものではなく、世界各国とは繋がりを持っていなかった。オリンピック、世界選手権を除いてはスキーのレースは一般にはあまり知られることはなく、ヨーロッパやアメリカで行なわれていた今日ではワールドカップの元となったレースは、むしろ親睦的な色彩の強い、あるいはビッグイベントに向けてのトレーニング的色彩の強いものであった。
フランツ・クナイスルの従業員でスキー制作の知識があるシュランツはすでに「★」のマーク(クナイスルスキーのマーク)をヘルメットに付けることがいかに良い宣伝になるかを知っていたし(このことが後に札幌オリンピックからの追放事件につながるのだが)、最初の風洞テストを実施したのもシュランツであった。スキーは木製からメタル、プラスチックに変わり、スイス人のハンツ・マルチンはスキーブーツにバックルを取り付け、素材が革からプラスチックに変わったのも時間の問題であった。
このような状況の中で、スキーレースに対する様々なアイディアが出されていた。ポイント制度、賞金についても考えられていた。ディナミックスキーの社長は3大クラシックレース(ラウバーホルン、ハーネンカム、アールベルグ・カンダハー)の勝利者はポイント0とすることを考え公表した。フランスのスポーツ紙「レキップ」は全シーズンを通してのベストレーサーを決める案を出した(これはセルジュ・ラング氏を除いては興味を持たれなかったが)。シーズン末には当然のごとくカール・シュランツが選ばれ、年末には思いがけないクリスマス・プレゼントを受け取ることになった。それは金のスキーをクロスさせ、ダイヤモンドを散りばめ、自然石の台に付けた大変美しい高価なトロフィーで、彼は今でもそれを「ヨーロッパカップ」と名付け大切に持っている。
アメリカでは当時プロとしてクリスチャン・プラウダ(AUT、'54年オーレ世界選手権DH金メダリスト)やスタイン・エリクセン(NOR、'52オスロ五輪GS、'54年オーレ世界選手権SL、GS、コンビ各金メダリスト)がすでに長期間賞金を稼いでいた時期であった。
「時は来た、準備は万端」とカール・シュランツは言った。今はすでに54歳になったが過去を顧みて、「当時ジャン・クロード・キリー(FRA)と私はお互い強いライバル意識を持っていて、レースのたびに闘志をむき出しにしていた。その年はオリンピックの中間で世界選手権もなかったから、FISレースだけで勝負を付けたわけだが、年間を通して良い成績を上げた者一人だけが何らかの賞品を受け取ったというわけである」。
スーパースターの価値
'66年1月、サッカーの世界選手権の組み分けが行なわれた。開催地はイギリスのシェフィールド。イギリス人はその世界選手権を「ワールド・チャンピオンシップ」とせずに「ワールドカップ」とした。この名称は現在多くのスポーツに於いてそのスポーツの最高価値として使われているが、「ワールドカップ」の名称が使われたのはこれが最初なのである。
スキーに於ける「ワールドカップ(World Cup)」はドイツ語で「ヴェルトカップ(Wertcup)」、フランス語で「クープ・デュ・モンド(Coupe
du Mondo)」、イタリア語で「コッパ・デル・モンド(Coppa del Mondo)」と呼ばれるが、この名付け親はフランス人ジャーナリストでスイス・バーゼル在住のセルジュ・ラング氏である。当時「レキップ」に自分のサイン入りで自転車レースとスキーレースの記事を寄稿していた気鋭のジャーナリストで、彼自身もこの言葉に発火した。
カール・シュランツのラウバーホルン勝利の数日後のことである。「私はオノレ・ボネ(FRA)、ボブ・ビーティ(USA)らとキッツビューエルのマウスファーレの下に立っていた。近くにはエルンスト・ヒンターゼア(AUT)もいて、それぞれ滑降のトレーニングを見ていた。”世界選手権を毎年行なうこともいいが、何を我々がやれば良いかというとそれはワールドカップなんだ!”と私は二人に言った」と、当時を振り返る。ラングの意気込みは興味を持って迎えられたが、決定ははるか彼方、南米チリのスキーリゾートで行なわれた。ラングは「南十字星の下で我々は幸運をつかんだ」と喜んだ。それは自転車レースの「ツール・ド・フランス」の最初のスタートとよく似ていた。ツールのディレクター、ジャック・ゴデーはラングを招いて言った。「君たちのスキーサーカスについては人々にはまだまったく知られていない。故に何らかの新案がなければならない。一つのトロフィーは真のベストレーサーに与えられなければならないのだ。我々の自転車レースのように、スーパーレーサーの価値に対して与えられるようにだ」。
歴史的記者会見
当時の話題は何といってもこの年('66年)の夏、チリのポルチーヨで行なわれる世界選手権大会のことであった。この世界選手権は今世紀最大に驚異の世界選手権であった。時は真夏の8月、標高2885mの高地で行なわれた。
「レーサーの狂気に人々は集まり、過去最高の”定期の職業を持った者”165人が1週間にわたりレースを展開した。しかし彼らは本当にアマチュアであろうか」とシュポルツ紙は書いている。
ポルチーヨは一つのホテルと幾つかのシャレーがあるだけでほかには何もなかった。スーパーマーケットまでは70キロも離れていたし、途中の道は雪、霧、雪崩の危険さえあった。薄い空気、不平でいっぱいの身体、何にもまして650のベッドは650人の参加者とファミリーだけのものであった。人生はただただ一つのホテルの中。ベッド、食堂、バー、ナイトクラブ、プール。サッカーのワールドカップはラジオで聞くのみ。ほかにはカード、はがきを書くこと、それらが全てであった。エドモンド・ブルックマン(SUI)は灰皿投げのチャンピオンになった。
この世界選手権でフランスは24個あるメダルのうち16個ものメダルをピステ上で獲得した。ジャン・クロード・キリーは滑降勝利のあと、スキーとブーツ、ウェアを付けたままでプールに飛び込んだ。
ラング、ボネ、ビーティのハーネンカムから来た3人とゼップ・ズルツベルガー(AUT、ザルツブルグ新聞)はいつもバーで話し合っていた。彼らはビールを飲み、ピスコを食べ、未来を語ることに熱中した。規則を作り、ポイント表を作る。そしてレースのカレンダーを作成した。彼らは眠る暇もなく熱中し次のレース会場を夢見た。誰もがこの考えは成功であると信じていた。そしてFIS会長マーク・ホドラーのもとに提案書は届いた。内容を見てホドラーはうなずいた。間もなく記者会見が行なわれた。
「紳士諸君、我々はワールドカップを開催する!」。
開幕前夜
セルジュ・ラング。1973年からワールドカップ委員会委員長を務め、のちに「トップマン」「ワールドカップの法王」とまで言われた彼はこの言葉を今もはっきりと記憶している。「もし私が100人のレーサーを集められるとしたら、ホドラーは1000人を集めることが出来る。彼なしに1966年8月11日、スキーレースの歴史は始まらなかっただろう」。
ラングは突っ走った。ただ人々を引っ張って行ったのみならず幻も実現させたのである。「何が重要で的確であったかと言えば、多くの人々がポルチーヨに集まったことだ」。
全てが上手くいっていたわけでもない。各国チームは「考えも付かないほどの経済上の不況」を公開した。そしてスイスチームは新聞に次のような広告を出した。「多少でも、多大であればこの上なし。多額のご寄付を! 郵便為替番号30-7007 後援会、連盟スキープール」。
メーカーにとっても、すでにその時大きな財政上の問題が推察されていた。ラングは言っている。「ワールドカップの戦いは、今後スキーメーカー同士の戦いにもなっていくだろう。マテリアルによってその価値が株式のごとく上昇する。そうした場合、トップレーサーに対するスキー、ブーツメーカーの勧誘争いが起こる。各メーカーは疲労し財政困難に陥ることも予想される」。今日スキーメーカーは年間65ミリオン・スイスフラン(約60億円)をレースに注いでいる。そして再び1966年のごとき財政上の困難をきたしているのである。
ポルチーヨの4ヶ月後、1967年1月5日、ワールドカップ第1戦のスラロームがドイツのベルヒテスガーデンで行なわれた。オーストリアのハイニ・メスナーがこの歴史的勝利を祝い、ワールドカップが歴史的第一歩を踏み出した。「ワールドカップ」「ヴェルトカップ」という言葉は有名になり、アイディアは賞賛された。
数日後ジャン・クロード・キリーの連続勝利が始まった。そしてキリーは言った。
「私にとってワールドカップは、世界選手権、オリンピックなどより、はるかに重要なものである」と。
続く |
 |
| ワールドカップ・グローブ |
 |
| 最初のタイトル・スポンサーは、「エビアン」だった |
 |
| カール・シュランツ |
 |
| ジャン・クロード・キリー |
 |
| ハイニ・メスナー |
 |
| ホテル・ポルティーヨ |
 |
| セルジュ・ラング氏 |
 |
| マーク・ホドラー氏 |
|