MOSER-PROELL Annemarie (AUT)

1953年3月27日 Kleinarl(AUT)生まれ
身長 169cm 体重 60kg

SKI: Atomic

※1980年引退

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Val dIsere 73 DH/1st Schruns 73 DH/1st Grindelwald 75 DH/ 1st
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Les Diablerets 78 DH/ 1st Schruns 79 DH/1st Lake Placid 79 DH/1st
LakePlacid WOG80 DH/1st
Garmisch Partenkirchen WM 79 Downhill / 1st Lake placid Olympic Games Downhill / 1st

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Proell & Nadig
World Cup Rankig
General

1969/17th, 1970/7th, 1971/1st, 1972/1st, 1973/1st, 1974/1st, 1975/1st,
1977/2nd, 1978/2nd, 1979/1st, 1980/2nd.
Special
1970 GS/3rd, 1971 SL/3rd, GS/1st, 1972 DH/1st, GS/1st, 1973 DH/1st, GS/2nd,
1974 DH/1st, 1975 DH/1st, GS/1st, 1977 DH/2nd, GS/3rd, 1978 DH/1st,
1979 DH/1st, SL/2nd, 1980 DH/2nd, SL/3rd,
World Championships
1970 Val Gardena DH/3rd, SL/21st, GS/14th, K/6th.
1974 St.Moritz DH/1st, GS/4th.
1978 Garmisch DH/1st, SL/19th, GS/3rd, K/1st.
Olympic Games
1972 Sapporo DH/2nd, GS/2nd,SL/5th, K/1st.
1980 Lake Placid DH/1st, GS/6th,
World Cup - 62 w. ( 36 DH, 16 GS, 3 SL, 7 K)
1. DH: Sugerloaf 71 I+II, St.Moritz 71,73, Sestriere 72, Badgastein 72,74, Grindelwald 72,73,75, Crystal Mtn.72,
Val d'Isere 72,73,78, Saalbach 72, Pfronten 73 I+II,74,77,78 I+II,80, Schluns 73,79, Chamonix 73, Zel am See 73,
Cortina 74,76, Garmisch 77, Les Diablerets 78,79, Bad Kleinkilchheim 78 II, Piancavallo 78, Meiringen 79,
Lake Placid 79,
GS: Maribor 70, Abetone 71, 71, Are 71, St.Gervais 72,73, Banff 72, Heavenly 72, Saalbach 72, Mt.Ste.Ann 73,
Val d'Isere 74, Grindelwald 75, 75, Jahorina 75, Naeba 75, Arosa 78.
SL: Maribor 71, St.Gervais 71, Piancavallo 79.
K : Grindelwald 75, Schluns 75,79, Chamonix 75, Cortina 76, Meiringen 79, Arosa 80,

 1970年代、アンネマリーは圧倒的な強さで女子のワールドカップを席巻し、1度引退し、そして復帰し、オリンピックで勝ち、引退した。彼女は勝ち続け、憎まれた。
 
 山間の農家の娘アンネマリーは、ザルツブルグ州ポンガウの山村、クラインアールの出身である。初めてのレースは1968年1月バドガスタイン(AUT)の滑降だったが、このとき早くもまわりの注意を引いた。当時まだ15歳にもなっていなかったワールドカップ初出場の少女は、ノンストップトレーニングでひどい転倒をしその原因を自分でこうのべた。「私はトレーニングでいつも感じていたことがあった。それはスキーのテールが非常な横づれをすることである。でも誰も私の訴えを真剣に敗り上げてくれない」。それどころか安全を期するという理由のもとに、血気盛んなプレルの出場をストップさせる始末であった。しかしサービスマンが確認したところによると、彼女のビンディングは10センチも前方に取り付けられていた。「誰のせいでもない、偶然の間違いだ」とオーストリアのコーチたちはプレルを慰めた。しかしプレルはこの最初のレースでもう一度転倒し、優勝した同僚のオルガ・パールに約30秒も遅れて最下位に終わった。

 だがアンネマリーは翌68/69シーズン奔走を開始し世界のエリートの仲間入りをした。サン・ジェルベ(FRA)の滑降で2位、スコーバレー(USA)の回転で4位。そして翌69/70シーズンにはオールラウンダーとして活躍、ついに70年1月マリボール(JUG)の大回転でワールドカップ全62勝中の第1勝目を上げた。そしてデビューして4年目の71年には総合優勝を飾ったのである。彼女の躍進に一番の影響を与えたのは、彼女が最も崇拝するカナダのナンシー・グリーンである。「彼女は私を感嘆させた。それはフランス人たちをみな下してしまった事だ。それは私もやりたいこと」。グリーンは67、68年と2年連続して総合優勝を成し遂げた。

 当時絶好調のフランスの女子レーサーたちにはまだ20歳にもならないアンネマリーはよく知られてはいなかった。だが71/72シーズンの冬には新しい競争相手として認識せざるを得なくなった。プレルは滑降全5レースのうち4勝を上げた。しかし彼女にとって最も重要だった札幌オリンピックではマリー・テレーズ・ナディック(SUI)の前に敗北を期した。

 アンネマリーの敗北の理由の一つは「シュランツ事件」であったとも言えよう。オーストリアのトップスターだったカール・シュランツはIOC会長アベリー・ブランデージ氏によって、アマチュア規程第26条に違反した理由で札幌から追放された。オーストリアチームはシュランツのためにオリンピックをボイコットする宣言をした。しかし結局はスタートすることを決定するなど、アンネマリーは他の競技相手に比較してトレーニング不足が目立っていた事実はあったし、そしてそういう事態を引きずったままレースに向かったことも皆が認めることであった。「私がどんな状態でレースに向かったかは、はっきりと思い出すことができる。確実性が欠けていた。その感覚は絶えまなく続いてそうなると夜眠ることもできなかった」。

 こうしたなかでレーサー生活最初の偉大な勝利を手にした若いスイス人は続く大回転でも優勝してしまった。「私としてはマリーテレーズが大回転でも勝つなんて、思いもよらないことだった。私にとっては最悪の出来事だった。彼女はただスタートを切ればそれでいい。けれど私に対してはみんなが期待をもっている。マスコミもまたオーストリア国民も。私が必ず金メダルを持って帰ると」。
 アンネマリー・プレルにとって日本でのオリンピックは「私のレーサー生活中の最大の屈辱」であった。敗北したプレルは記者会見にも姿を現さなかった。ナディックの全面的勝利宣言がプレルに伝えられた。そしてプレルの2つの銀メダルは自宅の戸棚の―番奥にしまい込まれた。

 アンネマリー・プレルは札幌オリンピックが開催された71/72シーズンから爆発的に勝ち進んだ。それからの3年間にプレルはワールドカップで最も活躍し勝利数を挙げた女子レーサーであった。

 71年の総合優勝後、72、73、74、75と5年連続で大クリスタル・トロフィーを獲得した(79年にも6回目の総合優勝を飾り、これは男女通してのレコードである)。72/73シーズンには全8戦あった滑降に全勝し、さらに大回転でも3勝を上げた。74年サン・モリッツ(SUI)の世界選手権では滑降で金メダル。そして74/75シーズンにはナディックとベルナデッテ・ツルブリッゲン(SUI)がいくつかの滑降勝利を奪い取れば、その仕返しは大回転で果たし7レース中5レースを奪いかえした。

 わがままで自己中心性の強い、すべてにおいて基準外れのプレルは、ピステ外でもその意外性を発揮した。73年の秋に誰にも知らせずヘルベルト・モザーと結婚した。彼女のスポンサーであるアトミックのロールモザーのみならず、彼女の母親にも何故か知らされなかった。そして75年早春アンネマリー・モザー・プレルはワールドカツプサーカスに別れをつげた。彼女は病床の父の看護や、また夫と共同で故郷のクラインアールに新築したコーヒーハウスの経営にあたった。

 1シーズンを置いた後、アンネマリー・モザー・プレルは新設されたBライセンス(プロ)の資格を取って76/77シーズンのピステに返り咲いた。マリーテレーズ・ナディックにとっては喜ばしい事実だった。「多くの選手達はブーブーと不平を言った。私にとってアンネマリーのカンバックは真のモチベーションの刺激となった」。

 この1年間『白いサーカス』は、こと滑降と大回転に関する限りナディックとモザーによってかき回された。容赦もなく雪上の決闘は展開した。スキーのみならず個人的事情にいたるまでも対決しあっていた。「私はマリーテレーズを素晴らしいライバルとして意識していた。これほど素晴らしい相棒はどこを探してもいなかった」とプレル。「アンネマリーは私とってワールドカップにおける支配的存在だった。彼女はそれを為さなければならないとなったら嵐の中でも泳ぎきった。彼女は勝たなかった。何故ならトレーナーがお利口だと頭をなでたから。そしてトレーナーのきつい叱責をうけると、躍起になってレースに勝った。彼女は物事をやりとおした。たとえそれが一般的に好まれないとしてもやってしまった。中でも私がどうしても良いとは思えない事もあった。例えば酒とたばこを買い入れることだった。しかもその量も多い。しかしながら、彼女はしっかりと大地に足をつけて立っている女、何を望みやるべきかをはつきりと知っていた。そうした女性を打ち負かすこと、それは私にとっては最高のモチベーションの刺激であった」とナディック。

 78年アンネマリーはガルミッシュ(GER)の世界選手権で二つの金メダル(滑降、コンビ)を獲得した。ナディックは79年、富良野の大回転で2位のアンネマリーに5秒20もの大差をつけて優勝した。これは決して破られることはないであろうレコードである。

 そしてついに1980年レーク・プラシッド(USA)オリンピック。それはまさに大舞台の最終幕となった。ナディックはこのシーズン、7つの滑降のうち6つに勝った。そして金メダル最有力候補に推されたが、しかし金メダルはナディックの手から風と共に飛び去った。それは8年前の札幌と同様、最有力候補の敗退という現象である。アンネマリー・モザー・プレルは長いこと待っていたオリンピックの金メダルをついに手にしたのである。彼女はこの待ちに待った勝利のあと「シーズンの残りの北米レースにはもう何の関心もない」とレーサー生活に終止符を打った。