KINSHOFER Christa (BRD -NED -BRD)
1961年1月24日 Rosenheim(BRD)生まれ
身長 169cm 体重 58kg

SKI: Rossignol →K2 →Volkl
BOOTS: Lange
BINDING:
Tyrolia →ESS


※1989年、シーズン途中で引退

Leukerbad SL Calgary OG88 SL/3rd
Leukerbad SL Calgary OWG 88 SL/ 3rd

ChristaFace World Cup Ranking
General
1977/40th, 1978/-, 1979/8th, 1980/11th, 1981/9th, 1982/24th,
1983/66th, 1984//-, 1985/-, 1986/44th, 1987/48th, 1988/12th.
Special
1979 GS/1st,
Olympic Games
1980 Lake Placid SL/2nd, GS/5th,
1988 Calgary SG/10th, SL/3rd, GS/2nd.
World Cup - 7 w. (5 GS, 1 SL, 1 K)
1. GS: Val d'Isere 79, Les Gets 79, Berchtesgaden 79, Aspen 79,
Heavenly Valley 79,
SL: Piancavallo 88.
K : Crans Montana 81.

 肩までたれる美しいブロンドの髪をたくしあげて帽子の中に押し込むしぐさが可愛い。大きなブルーの眼がいたずらっぽく笑う。クリスタ・キンショファー。大きな選手達の中でむしろ小さく見える。この西ドイツのかわいさ以外はノーマークだった17歳の少女が、78/79シーズン、大回転5連勝というとてつもない記録を作ってしまった。その鮮やかなデビューぶりは73/74シーズンに回転4連勝でデビューした先輩のクリスタ・ツェヒマイスターを彷彿させる。76年に総合優勝を飾りインスブルック(AUT)五輪の滑降、回転に金メダルを獲得したロジ・ミッターマイヤー以来のエースを西ドイツは迎えたことになる。そのミッターマイヤー引退後の西ドイツを支えたのは、78年ガルミッシュ・パルテンキルヘン(BRD)の世界選手権大回転で金メダルを獲得したマリア・エップレと滑降で銀メダルを獲得したイレーネのエップレ姉妹だが、これに新鋭のクリスタ・キンスホファーが加わった。彼女らは奇才クラウス・マイヤーの弟子である。各国から注目を集めていたマイヤーの科学トレーニングが実を結んだのである。だがそのマイヤーとの奇縁がクリスタのスキー人生を大きく翻弄した 。

 クリスタのワールドカップ初出場は76年12月16日、コルチナ(ITA)で行なわれた回転で58番スタートから20位に入った。61年1月24日生まれだからまだ15歳にちょっと足りない時だ。年が明けて1月3日オーベルスターフェン(BRD)の回転で10位に入り初のワールドカップポイント1を獲得した。翌77/78シーズンは大回転を中心に出場したがメジェーブ(FRA)の14位が最高でポイントは得られず、ヨーロッパカップも28位と伸び悩んでいた。それが78/79シーズンに大きな変貌を遂げた。開幕2戦目のバルディゼール(FRA)大回転でワールドカップ初優勝を飾るや、続くレ・ジェ(FRA)、ベルヒテスガーデン(BRD)、アスペン(USA)、ヘブンリー・バレー(USA)と一気に5連勝を飾ってしまったのである。当然のことながらワールドカップ種目別でもマキシマムの125ポイントを獲得し、大回転の総合タイトルを獲得した。78/79シーズンのクリスタは、咲きほこる花のように美しく光り輝いていた。

 翌79/80シーズンはレークプラシッド五輪のシーズンである。昨シーズンの勢いは影を潜め、それでもバルディゼール4位、アローザ6位とそこそこの成績で迎えたオリンピック。大回転では5位にとどまったが、回転でハンニ・ウエンツェル(LIE)に次ぐ2位、銀メダルを獲得した。同じクラウス・マイヤーの門下生であるイレーネ・エップレも大回転で銀メダルを獲得している。西ドイツチームでは男女合わせてメダルを獲得したのはこの二人だけであった。
 80/81シーズンのクリスタはクラン・モンタナ(SUI)のコンビで1勝を上げているがレ・ジェとズィーゼルの大回転2位が最高で勝ち星は上げていない。クリスタのピークはここまでかに思われた。また西ドイツチームも勢いは影を潜め、82年のシュラドミング(AUT)世界選手権、84年のサラエボ(JUG)五輪では男女ともにメダルなしの結果に終わっている。クラウス・マイヤーは監督を解任され、トレーニング方法で対立していたマイヤーの愛弟子エップレ姉妹とクリスタはチームを追われた。

 ここまでのクリスタならさして強く印象に残ることもなく、名選手としての記録だけが記憶の底にしまい込まれていただろう。しかしクリスタはあきらめなかった。

 84年12月、開幕戦のバルディゼールにクリスタはなんとオランダ所属の選手としてピステに現れた。大回転に出場する彼女のゼッケンは78番をつけていた。西ドイツを去るときに彼女のFISポイントはすべて剥奪されてしまったのである。レースを捨て切れなかったクリスタは屈辱のスタート番号をもらいゼロからの再スタートを余儀なくされた。当然のことながら西ドイツのユニフォームを着ることは出来ず、メーカー不明のウェアを身にまとい、スキーもそれまでのロシニョールからK2に変わっていた。彼女に対する一般の興味は成績よりもむしろ彼女の美貌と均整のとれた素晴らしいプロポーションを持つ彼女の姿態に対するものが多かった。「プレイボーイ」誌のヨーロッパ版にプレイメイトとしてヌード写真が掲載されるといううわさが流れた。皆急いで本屋に走ったものである。だが写真が撮影されたのは事実らしいが掲載はされなかった。ワールドカップのゴールエリアでも彼女は常に明るく目立つように振る舞った。興味を自分に引き付けるためのそれは計算されたデモンストレーションでもあったのだろう。それは「必ず上がって行くからね」という意思表示の現れでもあった。

 そのクリスタを1985年からサポートしたのが「ミズノ」である。今でこそミズノ、デサント、ゴールドウイン、アシックス、フェニックスの日本の主要なウェアメーカーは外国のチームにウェアを提供し、各国チームをサポートしているが、当時はデサント1社だけがスイス、カナダ、スペインなどにウェアを提供しているだけだった。当時ミズノがウェアを提供したのは、クリスタ・キンショファーと男子のペーター・ポパンゲロフ(BUL)の二人だけだった。 ミズノから写真の依頼を受けた私の究極の追っかけがここから始まった。ポパンゲロフは第1シードにいたからまだいい。コースの荒れないうちに滑ることが出来る彼の写真撮影は困難ではなかった。問題はクリスタである。遅いスタート順でスタートしなければならない彼女が来る頃はコースはかなり荒れている。常に「途中棄権」の危険性があった。したがって1本目はスタート直後を狙わなければならない。スタート直後といっても背景や選手のリズムなどの関係から10双旗位が限度である。それでも常に私のところまで来るとは限らなかった。2本目に残ることもまれだった。彼女を追い求め西へ東へ、それはまるでラリーのように、苛酷な仕事だった。合間に男子のレースも撮らなければならない。彼女の這い上がるための血のにじむような努力が分かるだけに、一つとして落とすことの出来ない究極の追っかけだったのである。

 クリスタは数少ないチャンスを着実に生かしながら徐々にポイントを上げていった。そして86/87シーズン、回転、大回転ともに第1シードに返り咲いたのである。翌87/88シーズンはカルガリー五輪のシーズン。あのクラウス・マイヤーが西ドイツチームに復帰した。クリスタもクラウスの要請で西ドイツに復帰した。そして87年12月19日、ピアンカバロ(ITA)で行なわれた回転で、79年以来実に8年ぶりに優勝を飾ったのである。そして迎えたカルガリー五輪。爆弾アルベルト・トンバ(ITA)と女傑フレニ・シュナイダー(SUI)の2冠で沸いたオリンピックだったが、このカルガリーでクリスタは大回転で銀メダル、回転で銅メダルとなんと二つのメダルを手にしたのである。

 翌89年の開幕戦、シュラドミング(AUT)の大回転。クリスタは1本目のインスペクションには出てきたが、膝や腰が痛くスタートできなかった。以後2度とワールドカップのピステには現われなかった。私の究極の追っかけも終わった。