FERNANDEZ-OCHOA Blanca (SPA)

1963年4月22日 Madrid 生まれ
身長 166cm 体重 62kg

SKI: Atomic
BOOTS:
Lange -Salomon
Binding: Salomon


※1992年引退

Blanca&Fernandez Lech92 SL/1st
ブランカと兄のフランシスコ・オチョア兄妹 1991年12月、レッヒ(AUT)で優勝したブランカ

World Cup Ranking
General

1981/81st, 1982/55th, 1983/51st, 1984/36th, 1985/10th, 1986/31st, 1987/8th, 1988/4th, 1989/18th,
1990/-, 1991/10th, 1992/7th
Special
1991 SL/3rd, 1992 SL/3rd
World Championships
1987 Crans Montana GS/5th, SL/5th, SG/10th.
1989 Vail GS/8th, SL/4th.
Olympic Games
1984 Sarajevo GS/6th/
1988 Calgary SL/5th
1992 Albertvill SL/3rd
World Cup - 4 w. (1 GS. 3 SL)
1. GS: Vail 85
SL: Sestriere 87, Morzine 90, Lech 92
2. GS: vysoke Tatry 86, Valzoldana 86, Mrgeve 87, Aspen 88.
SL: Courmayeur 88.
3. GS: Zwiesel 84, 87, Maribor 85, Tignes 88, Kranjska Gora 88.
SL: St.Gervais 87, Leukerbad 87.
4. SG: Val d'Isere 87.
GS: Sarajevo 87.
5. SG: Leukerbad 87, Lech 88.
GS: Saalbach 87, Les Menuires 88.
SL: arisa 85, Kranjska Gora 88, Grindelwald 89, Kranjska Gora 91 I , II.
K : badgastein 88.

 思い切りの良い果敢なスラロームは、’72年の札幌オリンピック回転で金メダルを獲得した長兄のフランシスコ譲りといわれた。しかし思い切りの良さが災いしてか、1本目にベストタイムを取っても2本目にコースアウトという、これも兄譲りの失敗の多いスキーで、故にハーフウィナーと呼ばれた。とくに印象に残るのは'88年のルガリー(CAN)オリンピックのスラローム。1本目にベストタイムをマークし、名門フェルナンデス・オチョア家の2個目の金メダルかと騒がれたが、2本目あえなく雪煙の彼方に消えた。

 悲運のレーサーであった。'89年のヴェイル(USA)世界選手権。FISの理事でありスペイン国王ホアン・カルロスの従兄弟であるアルフォン公爵が、男子滑降コースのゴールに張られていたケーブルに激突して死亡した。その死を悼みブランカは出場を断念して帰国した。その後左肩胛骨の骨折及び靱帯の損傷により89/90シーズンの全てのレースを欠場した。そんな彼女をレースへと駆り立てたのは、ひとえに兄に肩を並べたいという執念であった。怪我から復帰した90年12月、モルジン(FRA)のスラロームで3年ぶりに表彰台の真ん中に立ったときは、「私は世界で一番幸せな女。この3度目の勝利で私は兄と肩を並べられる選手になれたような気がする」と語っている(兄のフランシスコは札幌の金メダルと、ワールドカップでは1勝のみ)。

 '92シーズン、開幕戦のレッヒ(AUT)のスラローム第2戦で通産4勝目を上げた。このシーズンのアルベールビル(FRA)オリンピックに向けて順調な滑り出しを見せたブランカの狙いは、オリンピックの金メダルただ一つ。しかし彼女が獲得したのは銅メダルだった。「私はフェルナンデス・オチョア家のプレッシャーの中で選手生活を続けてきた。それはパコ(フランシスコの愛称)のメダルの脇にもう一つのメダルを付け加えるという宿命である」。

 金メダルには届かなかったものの10人の兄妹と両親が見守る中でついに悲願のオリンピックメダルを手にした。「私はこのような好成績を上げられる内に選手生活を終わらせたい。口の中によい味を残した内に食事を終わらせるように」。

 ブランカにとって思い出深いのは、わずかのところで勝利を逃した数え切れないほどのレースと、苦しい怪我の方であったという。ブランカは絶頂のときに惜しまれてピステを去った

Biorama Basel