WENZEL Andreas(LIE)
1958年3月18日 Planken(BRD)生まれ
SKI:Kaestle
BOOTS:Dachstein
BINDING:Marker


※1989年引退

Kitzbuhel80 SL/1st WatervillValley78 GS/1st
Kitzbuhel 80 SL/ 1st Watervill Valley 78 GS/1st

1980 Overall Champ World Cup Ranking
General

1977/21st, 1978/3rd, 1979/6th, 1980/1st, 1981/7th, 1982/5th,
1983/3rd, 1984/4th, 1985/3rd, 1986/14th, 1987/19th, 1988/55th.
Special
1978 GS/2nd, 1983/SL/3rd.
World Championships
1978 Garmisch GS/2nd, K/1st/
Olympic Games
1980 Lake Placid GS/2nd, K/2nd/
1984 Sarajevo GS/3rd.
World Cup - 14 w. (1 SG, 3 GS, 4 SL, 6 K)
1. SG: Garmisch 84,
GS: Adelboden 78, Watervill Valley 78, Oberstaufen 80.
SL: Kitzbuhel 80, Tarnaby 83, Kranjska Gora 83, La Mongie 85.
K : Kitzbuhel 80,85 Val d'Isere 80, Madonna 83,84, Wengen 84.
 1979/80シーズン、姉弟でワールドカップの総合優勝を果たしたアンドレアス・ウェンツェルとハンニ・ウェンツェル

 姉弟でアルペン・ワールドカップを制したレーサーがいた。スイスとオーストリアに囲まれた人口たった2万5千人のおとぎの国、リヒテンシュタインからきたハンニ(姉)とアンドレアス(弟)のウエンツェル姉弟である。1980年3月15日、ザールバッハの空はどんよりと曇っていたが、アルペンの歴史に新しい “青空”が広がった。ワールドカップ30年の歴史の中で、男女ともに同じ国が総合優勝を飾ったのは6回あるが、姉弟でというのはこれ1回しかない。兄弟、姉妹、兄妹でワールドカップレーサーというのは珍しいことではない。フィルとスティーブのメーア兄弟のように双子のレーサーだっていた。しかしウエンツェル姉弟のように総合優勝となるとまさにこれっ切りである。しかも同時に。
 ザールバッハの表彰台に立ったアンドレアスはしっかりと姉・ハンニの腰を抱き、ほおずりをした。ハンニの目が潤み、アンドレアスも彼の感情を抑えることができなかった。リヒテンシュタインから駆けつけたハンス王子とマリア王女が祝福を送る。誰からも好かれる姉弟に、昨日まで激しく争った仲間達や集まった観衆も惜しみない拍手を送った。アルペン国ではないスウェーデンからきたインゲマル・ステンマルクが、76〜78年の3年間に渡ってクリスタル・トロフィーを獲得したのもアルペン大国にとってショッキングな出来事だったが、小国リヒテンシュタインが男女ともに総合優勝を持っていったというのもアルペン大国にとってはショックだった。ウエンツェル家はもともとドイツ人だった。ドイツスキー連盟とのもつれからリヒテンシュタインに帰化してクリスタルトロフィーを獲得したというのも皮肉な話ではある。

 79/80シーズンというのはまだステンマルクの全盛のシーズンである。このシーズン、ステンマルクは回転に5勝、大回転に6勝の計11勝を上げ、レーク・プラシッドのオリンピックでも回転、大回転で金メダルを獲得している。一方、アンドレアス・ウエンツェルは回転と大回転に1勝ずつ、コンビに1勝の計3勝しか上げていない。なのに総合優勝できたのはひとえに前年から採用になった、あの “ステンマルク潰しルール”による。2位のステンマルクとの得点差はわずか4点差でしかない。最高のレーサーが2年続けて葬り去られた。だがルールはルールである。スポーツはルールによって成り立っている。このときのアンドレアスのタイトルは決して過小評価されるべきものではない。

 79/80シーズン、アンドレアスが浮上したのは1月に入ってキッツビューエルのハーネンカム大会からだった。当時のルールではコンビが得点に大きくものをいう(総合は滑降、回転、大回転、コンビの4種目、上位各4レースが得点に加算された)。アンドレアスはこのクラシックレースの滑降で4位に飛び込んだ。滑降の練習をしないスラローマーでは考えられない滑りだ。「ピステがだんだん速くなっていると見た。かつてないほどアタックした」
 コースの最後の部分では時速140キロを越えた。しかも、この部分では彼が誰よりも速かった。75年、帝王・クラマーに百分の1秒差に迫ったG・トエニ以来の快挙だ。翌日の回転も制して、コンビの優勝と合わせて62点を荒稼ぎした。
 だが、シーズン半ばの北米シリーズのころは消沈していた。ウォータービルバレーの大回転は2位を確保したが、回転とモンサンタンの大回転に失敗してしまった。すべてを失いファイトも無くしてしまった。

 レークルイーズの滑降では、最後のトレーニングの朝「家へ帰ろうかな」などとぼやいていた。というのは、移動のときケベックとカルガリーの間で彼のレース用のブーツが紛失していたのだった。彼がそのブーツを受け取ったのはレース開始数時間前だ。しかし結果は素晴らしかった。マイナス18度の凍てつく中最も難しいと言われるレークルイーズのコースを5位で走り切った。滑降スペシャリストも顔色ない。計173点。先を行くステンマルクを射程距離に捕らえた。「最後のヨーロッパシリーズで手柄を立てれば、と言うのは分かるが、今はできるかどうか分からない。できなければ才能がないということです」、慎重というよりは、自分を戒める風に言ったアンドレアスだったが、ヨーロッパに帰ってすぐオーベルスターフェンの大回転で貴重な1勝を上げた。198点。滑降に出場しないステンマルクはどう頑張ってもルール上200点以上は取れない。レースはコルチナとザールバッハで4レースも残っている。そのどれか一つに7位に入れば200点を越す。ステンマルクはきっぱりと言った。「僕はまたしてもワールドカップを失った。アンディは偉大なチャンピオンになるだろう。北米戦で一時は希望を 持ったが、レークルイーズとここで彼は見事に滑った」、オーベルスターフェンでアンドレアスに3位と敗れたステンマルクはこう「敗北宣言」して新しいチャンピオンを称えた。

 このときアンドレアスは22歳。端整な顔立ちでいつも微笑を絶やさない。チロルの体育学校に通うまじめな学生だ。おとなしく、賢い男で通っている。

 コルチナの大回転で4位に入って、アンドレアスは総合優勝を決めた。「ここ数年の間、私を駆り立てていた夢が、ついに実現した」。静かに語るアンドレアスは、長い緊張からやっと解放され、嬉しさをかみしめた。「風邪を引いているのかうまく呼吸ができなかった。今日ダメなら、最終戦のザールバッハもダメだったろう」。 薄氷を踏むような勝利だった。