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STENMARK Ingemar (SWE) -2

オルティセイの戦い

Thoeni vs Stenmark 1 Thoeni vs Atenmark 2
Battle of Ortisei. 23.Mar.1985. Stenmark vs Thoeni Battle of Ortisei. 23.Mar.1985. Stenmark vs Thoeni
Thoni vs Stenmark 3 Thoeni vs Stenmark 4
Battle of Ortisei. 23.Mar.1985. Stenmark vs Thoeni After the battle

 ステンマルクが最初にワールドカップで優勝を飾ったのはデビューして1年後の1974年12月17日、マドンナ・ディ・カンピリオ(ITA)に於ける回転だった。前年の後半第3ピリオド、北欧、東欧のレースですでに第1シード入りを果たしていたステンマルクは、この日12番でスタートした。が1本目の順位はなんと22位。ベストタイムのジョフリー・ブルース(USA)とのタイム差は1秒69。100分の1秒を争う世界でこの数字は常識的には回復不可能なタイム差である。しかしステンマルクはこのビハインドをはね除けて逆転優勝を飾ってしまった。のちに「逆転のステンマルク」として恐れられた瞬発力を、最初の勝利で早くも見せつけたわけである。一気にトップに上り詰めた18歳のルーキーはソバカスだらけの顔を柔らかくほころばせ表彰台に立っていたが、その微笑は実は「静かな自然だけの土地から出てきて、マスコミに対し、観衆に対し、必死に慣れようとした」(ノグラー)努力の現れだった。この日からステンマルクは自分の性格とは相入れないマスコミとも戦わねばならなくなった。スウェーデンのジャーナリストたちはステンマルクのことを「偉大な沈黙者」 と呼んだが、彼らは最盛期を通して「ヨー」または「ヨゥホー」としか帰ってこないステンマルクのポツリポツリの回答に苦心惨憺の仕事をさせられることになる。

 ステンマルクが大回転で初優勝を上げたのはその2カ月後の1975年2月21日、日本の苗場だった。1本目、緩斜面の廊下でステンマルクは内スキーに乗って転倒し、尻餅を着き、スキーは宙に浮いた。しかし強靭な足腰のバネを生かして立ち直りゴールしたがベストタイムのエリック・ハーカー(NOR)には1秒57の大差を付けられた。しかし2本目に大逆転を演じ2位に0秒06の差を付けて優勝した。翌日の日本の新聞各紙はそのときの転倒して横になったステンマルクの写真をこぞって掲載し、「これでもステンマルクは勝つ」とその強さをアッピールしたのだが、ステンマルクは「優勝したのになぜ日本の新聞は一番悪いところを載せるのだろう」とつぶやき日本人記者たちを苦笑させたものである。

 この年ステンマルクは回転に2勝、大回転に3勝、そのほかゴールすればすべて3位以内という成績をあげ、デビューして2年目にして早くも総合優勝争いに割り込んだ。そして1975年3月23日、北イタリア、ドロミテの景勝地、バル・ガルデナで行なわれたこのシーズンの最終戦は、ワールドカップ史上まれに見るドラマチックな名勝負になった。このシーズンの全23戦を消化した時点で、4回目の総合優勝にリーチをかけているイタリアの貴公子グスタボ・トエニ、突然ピステに新風を吹き込んだ北欧の一匹狼インゲマル・ステンマルク、9レースあった滑降に8勝し「カイザー」と呼ばれたフランツ・クラマーの3人が240ポイントで並び、この年から採用になったパラレル・スラロームで決着をつけることになった。勿論このレースに残ったレーサーは32人いたのだがレースの興味はこの3人に絞られていた。

  バル・ガルデナ、オルティセイのピステは3万人の観衆で膨れ上がり、異様な雰囲気に包まれたいた。滑降スペシャリストのクラマーは1回戦で早々と姿を消した。トエニもステンマルクも難無く相手を退けて1回戦を通過した。会場の雰囲気はいやがうえにも高まる。甲子園ならば対戦チーム同士の応援団が応援合戦を展開しムードを大いに盛り上げるのだが、このレースの応援団はトエニただ一色。イタリアチームもファンもトエニに勝たせるためにはなりふりかまわぬ作戦を展開した。スタート地点に向かうリフトに乗ったトエニの背中には熱狂的な声援が飛ぶ。しかしステンマルクには明らかに牽制のやじが飛び、雪の塊まで飛んでいる。警備のイタリア兵と報道陣の衝突。会場はしだいに殺気立ってきた。

 二人とも2回戦、3回戦、4回戦と勝ち進みいよいよ『夢の対決』となったが、ここまで勝ち上がる途中にはトエニにはイタリアチームの援護があったし、ステンマルクにもイタリア以外の選手の援護があった。例えばトエニに対したグロスやピエトロジョバンナのイタリア勢は、明らかにスポーツマンらしからぬアンフェアなレースで敗退したし、ステンマルクに対したチェコのヤン・バフレダは1本目大差でステンマルクに勝っていたにもかかわらず2本目簡単にコースアウトするなど、双方とも露骨な援護の応酬だった。その度に両チームとも抗議を繰り返し、ジュリー会議を開いてVTRで検討するなどレースは度々中断した。会場は騒然となったが何はともあれトエニとステンマルクを最後に対戦させようとする目論みだけははっきりしていて、会場は次第に興奮のるつぼと化していった。

 入念なコース整備が終わって3万人の大観衆の注目する中スタートの号砲がピステに響きわたった。好スタートを切ったトエニがまずリード。ヤングの精神的動揺を誘うかのように前に出る。ステンマルクは強引とも思える突っ込みでじりじりと追い上げを開始。独特のテクニックで旗門をクリアして行く。大喚声の渦巻く中で両雄はゴールに向かって死闘を展開。2台のジャンプをこなして後半に入るころには両者は一線に並んだ。形勢はしだいに逆転、ターンの差は明らかに若いステンマルクに分があった。ゴールまであと3旗門。完全にトエニは一歩遅れてターンに入った。ゴールラインまであと30メートル。そして1旗門を残すだけとなり決勝レースは大ずめを迎えた。この時よもやと思われたハプニングがゴール目前のステンマルクを襲った。 ステンマルクの体が大きく傾き、雪煙を上げてスリップした。一瞬の出来事に観衆も唖然とした。さすがの天才も体勢を立て直す余裕はなかった。そのまま横滑りしてコースアウト。横目でちらりとライバルを見たトエニの前身から一気に力が抜けたように、最後の旗門を軽く流して栄光のゴールラインを単独で通り抜けた。呆然とコースに立ち尽くすス テンマルク。

 この時私はゴールゲートのすぐ脇でカメラを構えていたのだが、思わず「インゲマル、ゴールするんだ、ゴールだ」と、仕事も忘れて叫んでいた。ルールではゴールさえすれば2本目は3秒のビハインドで滑ることが出来る。何が起こるか分からないではないか。しかしステンマルクはゴールしなかった。いや出来なかった。警備の兵隊の人垣も、大観衆にとってはまったく用をなさなかった。逆転劇のヒーローにどっと観衆が押し寄せ、ゴールエリアは身動き出来ない状態になっていた。「トエニは王座を守った」。イタリア語の大きな横幕を掲げてコースを闊歩するイタリアの若者たち。その騒ぎをよそにステンマルクは脱いだスキーを両手に持ち、歩いて静かにゴールを越えた。

 騒ぎは何時果てるともなく続いていた。やがて有頂天になった大観衆の渦の中で、両雄は明るい笑い顔で握手を交わしていた。童顔のステンマルクにやっと本来の人懐っこい、はにかんだような笑いが戻った。貴公子トエニは北欧のチャレンジャーの健闘をたたえる温かな微笑を送った。

 この勝利でトエニは2年ぶり4回目の総合優勝に輝いた。このレース以来ステンマルクはイタリアでも多くの熱狂的なファンを獲得した。トエニの誕生日(2月28日)に招かれたステンマルクが、トエニとシャンペンで乾杯している写真がイタリアの新聞に掲載されたりと、一気にステンマルクはイタリアの若者のアイドルになった。夏のトレーニングもイタリアの氷河でやることになる。そして翌年から3年間、ステンマルク潰しの新ルールが採用になるまで総合優勝を続けることになるのである。(つづく→
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