NIERLICH Rudolf (AUT)
1966年2月20日 St.Wolfgang(AUT)生まれ
身長 180cm 体重 80kg

SKI: Atomic
BOOTS: Koflach
BINDING: ESS Ver


※1991年5月16日,自ら運転する車で事故死

Vail WM89 GS/1st Saalbach WM91 GS/1st
Vail 89 WM GS/1st Saalbach 91 WM GS/1st
Salen90 SL/2nd Veysonnaz90 SL/3rd
Salen/Stoeten 90 SL/2nd Veysonnaz 90 GS/3rd
Vail WM89 GS/Podio
Vail WM89 GS/Podium, H.Mayer, Nierlich, Zurbriggen

Saalbach WM GS/1st
Saalbach WM91 GS/Gold
World Cup Ranking
General

1985/110th, 1986/-, 1987/19th, 1988/17th, 1989/6th,1990/10th, 1991/3rd.
Special
1989 GS/3rd, 1991 SL/3rd, GS/2nd.
World Championships
1987 Crans Montana SG/7th.
1989 Vail GS/1st, SL/1st
1991 Saalbach/Hinterglemm GS/1st.
Olympic Games
1988 cargaly GS/5th
World Cup - 9 w. (4 GS. 5 SL)
1. GS: Schladming 88, Kirchberg 89, Furano 89, Lillehammer 91,
SL: Wengen 89, Shigakogen 89, Kitzbuhel 90. Oppdal 91, Aspen 91,
2. GS: Alta Badia 87, Val Thorena 88, Aspen 91,
SL: Madonna 87, Salen 90, Watervill 91,
3. GS: Sarajevo 87, Veysonnaz 90, Alta Badia 90, Adelboden 91, Watervill 91,
SL: Kitzbuhel 89. Sestriere 91, Kitzbuhel 91,
4. GS: Adelboden 87, Mt.Ste.Anne 89, Kranjska Gora 91,
SL: Kitzbuhel 87, Kranjska Gora 90.
5. GS: Alta Badia 91,

 1991年5月18日午前2時50分。一人の選手が交通事故により死亡した。2月20日に25歳の誕生日を迎えたばかりのルドルフ・ニールリッヒである。世界選手権の金メダル3個、ワールドカップでも回転で5勝、大回転で3勝した「星の王子様」ニールリッヒの余りにも短かすぎた終焉。雨の深夜、多少アルコールが入っていたかもしれない。ゆるいカーブを曲がり切れずに道路外に転落、民家の壁に激突して死んだ。国民的アイドルだった彼が、自ら死を選んだとは考えにくい。いずれにしてもあのはにかんだような笑顔をもつ、物静かな誰にも好かれたあのルディはもうこの世にはいない。「ルディ」の愛称でオーストリアの国民からアイドルのように慕われたルドルフ・ニールリッヒだったが、その死に様を含めて決して幸福な生涯だったとは言えないだろう。

 ニールリッヒはザルツブルグ州にある有名なリゾート地,ボルフガングゼーの近くにあるバド・イシャルで1966年2月20日、大工(家具職人)の一人息子として生まれた。父親の仕事の関係で後にザンクト・ボルフガングに移ったが、あまり裕福とは言えない家庭環境の中で苦労の多い少年時代を過ごした。ルディは普段からあまり目立たず存在感の薄い選手だったが、彼の気弱とも思える性格はこうした生い立ちによるところが大きい。やがて当然のように親の跡を継ぐための職業訓練を受けることになる。

 ニールリッヒがスキーレーサーとして初めて大きな大会に勝ったのはアメリカだった。84年シュガーロウフ(USA)で行なわれたジュニア世界選手権の大回転優勝である。ルディ18歳の冬だった。オーストリアチームの技術系コーチで後に監督を務めたハンス・プムはこの時からルディに注目していた。実はニールリッヒは、家具職人としての職業訓練を受けているときにも一度交通事故を起こして運転免許を失ったことがある。そのときプムは「若気の過ちだ。ビールが一杯多かったのだろう。それだけのことさ。もう許したし過ぎたことだ」と,ニールリッヒをかばっている。

 ニールリッヒがナショナルチームに入ったのはジュニア選手権で優勝した83/84シーズンからで、ワールドカップに参入したのは翌84/85シーズンからである。このシーズンはマドンナ・ディ・カンピリオ(ITA)のコンビで15位に入っているのが唯一の記録。85/86シーズンは軍役に服しワールドカップの記録はない。86/87シーズンに復帰、10位以内に度々入賞するようになり、少しづつその存在が認識され始める。

 ニールリッヒが花開くのは87/88シーズンからである。あのアルベルト・トンバが爆発したのと同じシーズンである。87年12月13日、アルタ・バディア(ITA)の大回転でトンバに次ぐ2位。続く12月16日、マドンナ・ディ・カンピリオの回転でこれもトンバに次ぐ2位。トンバ・フィーバーの陰で余り目立たなかったが新鋭としてクローズアップされた。

 88年1月30日、シャモニー(FRA)の代替え戦として行なわれたシュラドミング(AUT)の大回転で、ルディはついにワールドカップ初勝利を上げた。これは大きな勝利だった。長い間低迷を続けていたオーストリア技術系チームが、このレースで2位フーベルト・シュトロールツ、3位ヘルムート・マイアー、4位ギュンター・マーダーと、上位4位までを独占、新監督ハンス・プム率いるオーストリア軍団の存在を大いに誇示するレースになったからである。

 ニールリッヒは最初、自分が勝ったことが信じられなかった。ゴールエリアで地元オーストリアの観客の声援を聞きながら,何が起きているのかはっきりとつかめずにいた。「彼もそろそろ勝ってもいいころだろう」と監督のプムは言った。「ルディは自分がほしいものが何か知っているし、彼には勝てる力が十分に備わっている」。内気なルディはプムに記者会見への同行を頼んだ。

 88/89シーズンのニールリッヒはプムへの感謝を表すには十分すぎるほどの成績を出し続けた。88年11月29日、バルトランス(FRA)の大回転でピルミン・ツルブリッゲン(SUI)に次ぐ2位に入賞し、89年1月11日、キルヒベルグ(AUT)の大回転で1、2本目ともにラップを取り大回転2勝目を上げた。勝つことが最高の妙薬になった。「今日はそれほど神経質にはならなかった。2本目に先に滑ったピルミンがよい滑りをしていたのが分かったので、あれこれ考えずにただひたすらフルスピードでアタックした。ゴールゲートを気分よく通過しようと思ったらそれぐらい攻撃的に滑らないと駄目なんだ」と、気弱でナイーブな"星の王子様"の舌は滑らかだった。

 続く1月15日、キッツビューエル(AUT)の回転で24番スタートから3位に食い込んだニールリッヒは、1週間後の1月22日、ウェンゲン(SUI)のラウバーホルン大会の回転で、最も難しいと言われているコースを制し、スラロームでもついに記念すべき初勝利を上げた。トンバと一騎打ちの末、わずか百分の2秒差の勝利だった。ニールリッヒは賛辞を独り占めする事なくこう言ったものだ。「選手、コーチ、サービスマンも含めて、皆とても仲のよい最高のチームです。」
 ベイル(USA)で開催される世界選手権を前にしてルディはついに世界のトップへと上り詰めたのである。

 89年1月29日から2月12日までの15日間に渡って行なわれた第30回アルペンスキー世界選手権大会は、折からアメリカ本土を襲った異常寒波のため、レースは連日凍てつくような寒さの中で行なわれた。
 このような大舞台ではニールリッヒのようなどちらかというと気の弱そうな新人が活躍する余地はあるまいというのが一般的な見方だった。やはりトンバ、ジラルデリ、ツルブリッゲンらベテラン勢の活躍に焦点は集まっていた。しかし終わってみると"重複優勝者"はニールリッヒただ一人。大回転、回転の二冠を取ってしまった。ルディは一気にオーストリアの国民的アイドルになった。2冠目の回転を,”ミスター精密機械"のアルミン・ビットナーとの死闘の末制した後でニールリッヒは取り巻いた記者団に語った。
 「世界選手権のタイトルを手にすることは、幸運と良いマテリアル、そして良い滑り、そのすべてが必要だ。そして今回、僕にはその三つの条件すべてが備わっていた。ベイルにくる前、メダルを狙ってはいたもののまさか2個の金メダルをポケットにコロラドを去ろうとは想像すらしていなかった。今日の2本目は、私を含むどのレーサーにとっても難しい状況だったと思う。幸運にも僕はフィニッシュすることができた。ゴールでビットナーが滑ってくるのを待っている間、最悪でも銀メダルを手にすることはできるのだからと、割に気楽だった。いつもレースのときは優勝を狙う。どのレースでもリスクを掛けているが今日は本当にうまくいった」
 寡黙な男にしては報道陣を前にして気負うところなく良く喋った。本当は強靭な神経の持ち主だったのかもしれない。

 ワールドカップ、世界選手権と好調をキープしてきたニールリッヒは、このシーズン最後を飾る日本の富良野、志賀高原に於ける最終戦シリーズで、またまた爆発的な力を発揮して日本のファンにその名を強烈に印象づけた。
 3月3日、富良野大会初日、男子大回転。1本目は1番スタートのオーレ・クリスチャン・フルセット(NOR)がラップを奪った。ニールリッヒは1秒31遅れの7位。常識的には届かないタイムである。しかし2本目、彼は逆に百分の7秒差を付けて脅威の大逆転劇を演じ、大回転通算3勝目を上げた。

 3月10日、志賀高原大会第3日目、男子回転最終戦。このレースはあのステンマルクの最後のレースになった。3万人を越すスキーファンがジャイアントコースを埋め尽くしていた。難しいコースだった。第1シードの選手が次々にコースアウトしていった。その中にはトンバ、ステンマルク、そして岡部哲也も含まれていた。荒れたレースだったがニールリッヒは1、2本目ともにラップを取れなかったが優勝した。ピステを去って行くステンマルクとピステにやって来たニールリッヒ。新旧交代のドラマを目の当たりに演じたレースとして日本のファンに強い印象を残した。そしてニールリッヒ時代の到来を誰もが思ったのだったが――。

 続く89/90シーズン、ニールリッヒは先シーズンの好調がまるでウソのように鳴りを潜めてしまった。ニールリッヒのスロースターターぶりを知っているファンもイライラは募るばかり。だがキッツビューエルの50回記念ハーネンカム大会の回転では幸運にも助けられて優勝した。しかしファンはそれだけでは納得しない。"勝利を忘れたエース"は酷評を浴び続けた。

 翌90/91シーズンも出足は良くなかった。そこそこには来るのだけれどなかなか勝てない。そして迎えた地元ザールバッハ/ヒンターグレムでの世界選手権大会。不運にもこの大会は、あの岸戦争勃発後初の世界規模のスポーツイベントとして位置付けられていた。さらに直前のウェンゲンに於けるラインシュタドラー(AUT)の事故死、そしてラウバーホルン大会の中止。テロの噂、アメリカチームの不参加表明。それらを受けて大会の開催も危ぶまれるほどの世界選手権だった。軍隊と警察による異常な警戒の元に大会は開催された。「暗雲」と「緊張」。ニールリッヒはそれらを吹き払うかのように"大舞台に強い"底力を発揮した。大会最終日の男子大回転。ニールリッヒはあらゆるプレッシャーを撥ね除けて世界選手権2連覇を達成したのである。再びオーストリア国民のアイドルに復活したルディであった。

 ワールドカップが再開されると、この"歌を忘れた星の王子様"はそれまでの不調がウソだったかのように勝ち星を上げた。オプダル(NOR)、アスペン(USA)と立て続けに優勝したのである。序盤戦必ず出遅れるニールリッヒは、加えて無得点レースが多いという特徴もあった。典型的な"天才肌"、"一発屋"なのだ。一度調子を取り戻せば爆発的な力を発揮するタイプである。それにしてもアスペンでの勝利が彼の最後の勝利になろうとは――。

 91年3月末、ニールリッヒはアシックスのレーシングキャンプのために来日した。参加者の一人からこんな質問が出た。
 「シーズン中に疲れがたまったときの効果的なトレーニング方法は?」
 ニールリッヒは「とにかく寝ることだ」と答えた。

 それから1ヶ月と19日後、ルディは永遠の眠りへと旅立って行った。

funeral ceremony ニールリッヒの葬儀
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