 |
|
MUELLER Peter (SUI)
|
1957年10月6日 Adliswil(SUI)生まれ
身長 184cm 体重 84kg
|
SKI: Rossignol →Blizzard
BOOTS: Dinafit →Raichle
BINDING: Salomon
※1992年引退 |
 |
 |
| Val d'Isere DH |
Madonna di Campiglio SG |
 |
 |
| Crans Montana DH |
Wengen DH |
|
 |
World Cup Ranking
General
1977/24th, 1978/36th, 1979/15th,
1980/9th,
1981/5th, 1982/4th,
1983/7th, 1984/24th, 1985/4th,
1986/4th,
1987/9th, 1988/9th,
1989/12th, 1990/107th,
1991/63rd.
Special
1979 DH/1st, 1980 DH/1st, 1981 DH/3rd, 1982 DH/1st,
1983/-, 1984/-, 1985 DH/2nd, 1986 DH/2nd, 1987 DH/2nd,
World Championships
1978 Garmisch DH/5th.
1982 Schladming DH/5th.
1985 Bormio DH/2nd.
1987 Crans Montana DH/1st.
1989 Vail DH/2nd.
Olympic Games
1980 Lake Placid DH/4th.
1984 Sarajevo DH/2nd.
1988 Calgary DH/2nd.
World Cup - 24w. (DH/19, SG/2, K/3)
| 1. |
DH: |
Villars 79, Val Gardena 79, Pra-Loup 80,
val gardena 80,
Wengen 80, Aspen 82T,U, Whistler 82, Aspen 85,
Panorama 85, Morzine 86, Are 86, Aspen 86, Las Lenas 87,
Mt.Allen 87, Furano 87, Bad Kleinkirchheim 88, Vail 88,
Val Gardena 88. |
| SG: |
Val d'Isere 82, Crans Montana 86. |
| K : |
Val Gardena 80, garmisch 85, Crans Mintana
86. |
|
|
大きな上背,がっしりした肩,顔もいかつい。ペーター・ミューラーは一口に言えば大男だ。1957年10月6日、チューリッヒ郊外のアドリスビルに生まれた。レーサーの中では珍しい”都会人”だ。
「ぼくはワールドカップの選手に選ばれた時から,断固として優勝すると信じていた」
この確信が仲間からは思い上がりと見られていたし、荒っぽい態度や攻撃的な性格から世間を狭くしていた。都会人であることもナショナルチームに溶け込めない要素になっていた。だが一風変わって見える彼が、日々日誌を付けてレースを分析するなど、体つきに似合わないインテリジェンスの持ち主であることを忘れてはいけない。その緻密さによって、1974年スイス国内選手権での最初の滑降80位から、5年後に同じピッツ・ラガルブのコースで優勝したように,着実にその足跡を付けてきたのだ。
「僕が一番幸せなのは,町から離れて自然の中にいるときだ。競技はただひたすら没頭させられる仕事みたいなものだ。疲れ果ててしまう。静かな森で野生の果物を探したり、人気のない流れに釣り糸をたれるときが何よりもいい、他人と張り合うこともないし……」
ミューラーは”没頭”することによってフランツ・クラマー(AUT)のあとを引き継いだ。79年、80年の2年連続で種目別滑降のタイトルを獲得した。しかしクラマーほどの勝ち星を上げたわけではない。滑降はまさに戦国時代。実力伯仲のカオスの時代に突入していたのである。
1978/79シーズンは全9戦あった滑降レースで実に8人もの勝者を出した。2勝したのはペーター・ビルンスベルガー(AUT)だけ。あとはケン・リード(CAN)、ヨセフ・ワルヒャー(AUT)、エリック・ホーケル(NOR)、スティーブ・ポドボルスキー(CAN)、トニー・ビュルグラー(SUI)、セップ・フェルストル(BRD)、ペーター・ミューラーの7人が1勝ずつ。これにヘルベルト・プランク(ITA)、ハルティ・バイラーター(AUT)、ウリ・スピース(AUT)、バレリ・チガノフ(SOV)の4人を加えると当時のダウンヒル・シーンの役者が全部そろったことになる。いずれを取っても千両役者ばかり。それぞれが独特のキャラクターを持ってピステや周辺を沸かせたものである。余談になるが当時に比べると今のレーサーは,管理されて作り上げられた精密機械が滑っているようで、人間的な面白みに欠ける。そのうちの何人かとは一緒に酒も飲んだしゲームも
やった。夕方のお茶の時間になると決まった店にたむろしていて、いろいろと面白い話やためになる話を聞かせてくれたものだった。
それはさておき、ミューラーは1978/79シーズンは1位1回、2位4回で滑降のタイトルを手中にした。翌1979/80シーズンは全7戦のうち3勝を上げ名実ともに滑降のチャンピオンとなった。ミューラーを追い詰めたのはケン・リードである。ミューラーは実に15年間もの長期間に渡ってワールドカップを戦ったが、リードをリーダーとする”クレージー・カナック”とのバトルが最もスリリングで迫力があった。1980年1月18、19日のウェンゲンに於ける滑降2連戦では1戦目をケン・リードが制した。このレースは片桐幹雄(現・全日本ナショナルチームヘッドコーチ)が13位に入賞したレースである。2戦目はコースレコードでミューラーが制したが、2位リードとの差はわずか百分の2秒だった。レースを見に来たジャン・クロード・キリー(FRA)は言っている。「最も僅差のレースは最も美しい。百分の数秒差が世界を作る。その世界は栄光と屈辱を分ける」。この年のミューラーとリードのタイトル争いは最後までもつれたがわずか9ポイント差でミューラーが逃げ切った。「頂上に居続けることは、そこに達するより難しいのは確かだ。でもぼくはプレッシャーを感じない。地位を守るというのではなく、まだ見習い期間の気持ちで自分を追及していく」。ミューラーの”見習い期間”はその11年後の1991年まで続いた。
1977年1月10日ガルミッシュでクラマーに遅れること3秒79の18位でワールドカップにデビューしたミューラーは、1992年3月14日、アスペンの19位を最後に引退した。直接の原因は1989年12月13日、このシーズン第1戦のバルガルデナでのトレーニングランで”らくだのこぶ”で大転倒し前十字靭帯を切ったことである。翌シーズン復帰したが上位入賞はならず引退した。15年間のワールドカップ生活は滑降で131戦を戦いクラマーの25勝に次ぐ19勝を上げ、そのほかにスーパーGで2勝、コンビ3勝の計24勝を上げた。また5回の世界選手権では金メダル1個(87年クラン・モンタナ),銀メダル2個(85年ボルミオ、89年ベイル)。さらに3回のオリンピックでは銀メダル2個(84年サラエボ、88年カルガリー)を獲得している。
引退後はスポーツジムを経営するかたわら、ジュニアの育成にも努め,無料でレーシングキャンプを開催している。 |
|
|
|