LUECHER, Peter (SUI)

1956年10月14日 Romanshorn(SUI)生まれ
身長 177cm 体重 72kg

SKI: Rossignol

※1985年引退

LakePlacid79 DH Kitzbuhel79 DH
Lake Placid 79 DH Kitzbuhel 79 DH

LuscherFace
1999 WCup/Champion
WCup Champ. 1979
World Cup Ranking
General
1975/52th, 1976/25th, 1977/36th, 1978/16th, 1979/1st,
1980/10th, 1981/58th, 1982/28th, 1983/5th, 1984/55th, 1985/17th.
Special
1979 GS/2nd
World Championships
1978 Garmisch Partenkirchen GS/7th
1982 Schladming K/2nd
World Cup: 1st 1979 - 6 W. (1 DH, 1 SL, 1 SG, 3 K)
1. DH: St.Anton 83
SL: Garmisch Partenkirchen 79.
SG: Garmisch Partenkirchen 83.
K : Schladming 78, Garmisch 79, Val Gardena 79.
2. DH: Val d'Isere 83.
SL: Madonna di Campiglio 78.
GS: Schladming 78, Kranjska Gora 78, Courchevel 79, Steinach 79.
SG: Val d'Isere 82.
K: St.Anton 77.
3. GS: Arosa 78, Lake Placid 79.
SL: Stratton Mountain 78.
K: Kitzbuhel 79, Garmisch 82, Val Gardena 82, Kitzbuhel 83, Parpan 84.

 1979年、ペーター・リューシャーは1シーズンに3勝したのみでワールドカップの総合優勝を果たした。このシーズンは「ステンマルク潰し」元年。ステンマルクが大回転で10戦全勝し回転でも3勝を上げて計13勝、男子のシーズン最多優勝記録を作った年である。リューシャーの3勝の内2勝はコンビで上げたもの。スペシャル種目での優勝はガルミッシュ(BRD)での回転1勝のみだった。
 シーズン前には、リューシャーの総合優勝は単なる可能性としてあるに過ぎなかった。だが彼はコンビ種目が復活したことで心に期するものがあった。滑降にもチャレンジ出来る自分にもチャンスがあると―。

 前シーズン、最後の大回転、ストラットン(USA)と最後の回転、アローザ(SUI)でともに3位に入った。その自信を持ち続けて練習に明け暮れた。とくに滑降に力を入れるのが彼の戦略だった。「すべての種目に戦うことができる体力作りをした。滑降の練習とレースが私の回転と大回転の技術を非常に進歩させた」
 リューシャーの考えは素晴らしい結果を生んだ。大回転第1戦のシュラドミング(AUT)からクラニスカ・ゴラ(JUG)、クールシュベル(FRA)と2位を3回続け、回転初戦のマドンナ(ITA)でも2位。しかもシュラドミングではコンビで1位と、文字通り快調な滑り出しを見せた。大きな分岐点は1月末のガルミッシュ(BRD)のアールベルグ・カンダハー大会だった。この時点でステンマルクが135点、リューシャーは2位の127点。

 1月28日、ガルミッシュの回転でリューシャーはワールドカップでの初勝利を飾った。コンビでも優勝し46点をプラス、合計173点となった。滑降に出場しないステンマルクは当然コンビでの加点はなく、この年のルール(各種目ベスト3レース採用)では回転、大回転でどんなに勝っても150ポイントが限度である(1位は25点)。この時点でステンマルクのワールドカップ4連覇は消えた。レークプラシッド(USA)の大回転でリューシャーは3位に入ってさらに加点し、この時点でスイス人としては初の総合優勝を決めた。

 リューシャーはスペシャル種目で1勝しかしなかったために、ステンマルクの華やかな10連勝などと対比され「彼は1流じゃない」という見方もある。確かにライバルたちの怪我などに救われた面もあるが、ワールドカップのルールをよく理解したうえで、それを最大限生かすために練習を積んできた成果である。その力は軽く扱われるべきではない。また4カ月近い間、全てのレースで戦うことは並大抵では出来ないし、コンビ2勝、回転1勝2位1回、大回転2位4回の成績は"一流レーサー"であることをはっきりと示している。今こそ当たり前に言われる"オールラウンダー"という言葉も、そう呼ばれたのはリューシャーが最初である。ワールドカップで最も価値のある総合タイトルを獲得するには、1シーズンで30戦を越える戦いをまず生き抜くことが必要なのだ。言うなればサバイバル戦争とでも言える、これは壮絶な戦いである。

 リューシャーは生まれ育った環境から言ってスキーで勝つための有利な条件を持っていたわけではない。彼は平野から来た男である。スイスの北東部にあるボーデンゼー湖畔の町ロマンスホルンで生まれ育った。ボーデンゼーは当然彼が遊ぶ最初の場所となった。スポーツ好きの兄ルネや妹のカリンと毎日のように湖に出掛けた。6歳で泳ぎ、父に教わって水上スキーを楽しんだ。彼は10歳で水上スキーの全ての種目でトップクラスの滑りを見せ、68年、12歳の時にはフィギュアのフリーでヨーロッパ選手権のジュニア・チャンピオンの座に着いた。その後3回の国内タイトルもとっている。リューシャーが76年にアルペンスキーの道を選んだとき、彼はまだ水上スキーの国際レースで十分に成功する位置にいた。「雪を選んだが、水上スキーもスキーと同じように楽しい。でも水上スキーは僕のこれからの人生にとって大きなこととは思えなかった」

 スキーは小さいころから楽しんではいた。冬には家族でアローザにあるアパートで暮らすのが習慣になっていた。だがそこで天賦の才能を発揮していたわけではない。もともとひどい低血圧で、一種の貧血を持っている少年だった。ワールドカップを制したときでもリューシャーは優れた体力を誇っていたわけではないし、1m77p、72sの体は目立たないくらいだった。スキーさばきも人を引き付けるようなテクニックを見せることはない。むしろおとなしい印象を与える滑りだった。子供の頃からスキー場で育った選手とは違うキャリアの浅さや、過去の実績から言って当然のことだろう。

 そんな彼がここまで来るにはもちろん彼に才能があったことは確かだが、隠れた天分を引き出してくれたのは、アローザのピステとスイスが生んだ元オリンピック金メダリストのロジャー・スタウブである。彼に最初のターンを提供してくれたのはアローザのピステだが、そこでスタウブは速く滑り、速く曲がることを教えてくれた。それはリューシャーが彼にくっついて滑る力があったからこそ学べたことだが。「ロジャーはアローザの自分の家に戻るたびにぼくを誘って一緒に滑ってくれた。僕は偉大なチャンピオン時代の彼を知らなかったんだ。僕のターンの仕方はみんなロジャーから盗んだものだ」

 急速な進歩がスキーの楽しみを教え、小さなレースで勝つことで彼を夢中にさせた。74年、18歳のときに初めてFISのレースに出た。そこで5年後にリューシャーが4連覇にストップをかけることになるステンマルクに初めて会った。強い印象を受けたという。「そのときもインゲマルは貝のように黙りこくっていた」

 リューシャーは1985年に引退、あのファビアンヌ・セラを妻とした。