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KODAMA, Osamu (JPN) 児玉 修(小賀坂スキー)

1956年9月21日 長野県生まれ
SKI: Ogasaka
BOOTS: Caber
BINDING: Look


※1985年引退
Kodama lengglies 80 SL/6th kodama. Lengglies 80 with staff
Lenggries 80 SL/6th レングリース、児玉修とそのスタッフ
Kodama. madonna di campiglio SL Kodama. Salajevo OWG84 SL/12th
Madonna di Campiglio SL Sarajevo 84 SL/12th(DSQ)
Kodama. Wengen SL Kodama. Kitzbuhel SL
Wengen Kitzbuhel

World Cup Ranking
General

1979/84th, 1980/68th, 1981/-/ 1982/-, 1983/-, 1984/72nd.
World Cup
6. SL: Lenggries 80.
10. SL: Madonna 83.
11. SL: Are 84

 海和俊宏と児玉修、この二人が活躍した時代は、思うにワールドカップにおける我が日本アルペンがチームとして最も充実した華やかな時代だったと言えよう。柏木正義、市村政美、海和俊宏に始まり児玉へと続き、そして大高弘昭、石岡千秋、岩谷高峰と惣々たるメンバーが揃っていた70年台から80年台前半の日本アルペンチームは、ことワールドカップのスラロームに関する限り、日本アルペン史上最強のチームだったといえる。表彰台には届かなかったものの15位以内には常に誰かが入っていた。そしてこのあとを受けて岡部哲也(デサント)へと続くのである。しかし岡部哲也の時代はチーム力というよりも岡部一人の孤軍奮闘の時代だった。

 1980年1月8日、西ドイツ(当時)バイエルン州の片田舎にあるレングリースで行なわれたワールドカップ男子回転第2戦で、日本製のスキー(小賀坂)を履いた児玉修が自己最高位の6位をマークした。1本目に第3シードのスタートながらベストタイムのグスタボ・トエニ(ITA)に0秒58差の好位置につけた児玉は2本目、ペーター・ポパンゲロフ(BUL)、インゲマル・ステンマルク(SWE)、アレクサンドロ・ツィーロフ(SOV)に次ぐ4位のタイムをマークして一気に浮上6位入賞を飾った。
 レングリースのコースは緩斜面が多く、加えて当日は小雨模様で雪が柔らかくどの選手もてこずっていたが、レークプラシッド(USA)のオリンピックを1カ月後にひかえて選手たちには気合が入っていた。このレースで優勝したのはこれが初優勝でしかもワールドカップでのたった一つの勝利を飾ったペーター・ポパンゲロフ。2位には急浮上してきた旧ソビエトのアレクサンドロ・ツィーロフ。3位にあのインゲマル・ステンマルク。4位にフィル・メーア(USA)。5位に1本目ラップのグスタボ・トエニ。そして6位に児玉修。児玉より下位にはピエロ・グロス(ITA)、スティーブ・メーア(USA)、アンドレアス・ウエンツェル(LIE)、クラウス・ハイデッガー(AUT)、クリスチャン・ノイロイター(BRD)など当時の強豪たちがひしめいていた。病み上がり(78シーズンにアキレス腱断裂)で不振だった海和俊宏がすかさずお祝いに駆けつける。ほかの選手たちも次々にお祝いに駆けつけ握手を交わす。当時のスーパースターたちに取り囲まれてにこにこしていた児玉修は素晴らしい輝ける存在だった。僻みっぽい日本人の中には「上越並の雪だったから」と、暗に雪質のせいで6位に入賞できたと言わんばかりの事を言う輩もいたが、むしろ日本人レーサーが日本製のスキーを履いて上位に入賞したことを素直に喜び祝福した方が、どれだけ精神衛生上よろしいことかと思ったものである。児玉修は日本のスキーが世界に通用することを初めて証明して見せた最初の日本人レーサーである

 児玉修は80年2月、レングリース6位の実績を引っ提げてレークプラシッド五輪に参加した。しかしプレッシャーに潰され1本目でコースアウトしてしまった。「抜けたポールが足にからみついたんです」と本人は言っているが本当はプレッシャーに負けた。このオリンピックには日本から児玉修、海和俊宏、沢田敦(現鯵ヶ沢スキースクール代表)の3人が回転に出場したが、児玉、海和ともに途中棄権、沢田敦の15位というのが日本人の最高位であった。

 4年後の1984年、児玉修はサラエボ(JUG・当時)オリンピックにも日本代表選手として出場した。このときは児玉の他に海和俊宏、岩谷高峰の2人が代表選手として回転に出場した。アメリカのフィル・メーアが金メダル、双子の弟のスティーブが銀メダルとメーア兄弟が金銀のメダルを独占し話題をふりまいた。この回転で児玉修は12位、海和俊宏は13位という成績でゴールした。しかし何ということか、旗門員が児玉の旗門不通過を宣したのである。これに対しレース終了後15分間のプロトコール(抗議)の時間に日本チームは抗議を行なわなかった。いや出来なかった。したがって児玉修の失格が確定してしまったのである。これは明らかに日本チームの不手際だった。児玉はこれについて多く語ろうとしないが胸中は如何ばかりか。「自分では自信をもってきちんと通ったと確信しています」と語っている。

 サラエボ五輪のあと、このシーズンのワールドカップ最終戦の北欧シリーズに児玉は、コーチもサービスマンもつけずに一人でスキーを担いで参加した。最初のオーレ(SWE)で11位に入賞した児玉だったが、最終戦のオスロ(NOR)で行なわれたファイナルのパラレルスラロームに出場するにはポイントが足らなかった。せめてこのパラレルスラロームの前走に出場させようと、やはりこの北欧シリーズを取材に来ていた薬師洋行氏と結託して児玉の説得にかかった。「ハインツ・クレチェック(TD)に話をつけるから前走に出ろ」と。「もうそんな力残っていませんよ」とか「もうビンディングを外してしまいましたから」とかぐずぐず渋っていた児玉だったが、我々のあまりにもしつこい説得に業を煮やしたか「来年は選手で出ますから」と言った。その言葉に我々は言葉を失った。「それは凄い。よし来年本当にファイナルに選手で出て来たら、二人で君のほしいものをプレゼントしてやる」と我々は本当に不用意な約束してしまったのである。「アウディ・クワトロなんかが良いですね」と、児玉は本気か冗談かにこにこしながらのたまわく。我々はここで、彼が本当に実力でファイナルのパラレルに出場してきたらアウディ・クワトロをプレゼントする約束をした のである。

 84/85シーズンは児玉修のワールドカップ現役最後の年になった。このシーズンの児玉は最初から調子が悪く、なかなか成績を出せずに苦しんでいた。そしてこの年ボルミオ(ITA)で行なわれた世界選手権の代表から漏れてしまった。
 児玉はこれを最後に現役から身を引き、日本チームのアシスタント・コーチをしたのち、オーストリアのトレーナー養成コースに自費で留学、2年の研修期間を終えて帰国、長野県スキー連盟のコーチとして活躍していたが、やがて現在のJOCジュニア強化コーチとSAJアルペンナショナルBCチームのヘッドコーチに抜擢され就任する(現在はナショナルチーム・アルペン・ヘッドコーチ)。「自分が現役時代に果たせなかった夢を次代の子供達に託したい」と彼は抱負を語った。

 ところで前年オスロでプレゼントを約束した800万円のアウディ・クワトロは、イタリアで買ってきた800円のプラモデルに変わって彼の手にわたった。

 (後日談:児玉ヘッドコーチはクワトロのプラモデルなど絶対に貰っていないと主張してはばからない。そんなはずはないと思っていたのだが、がらくたを捨てようと仕事部屋を整理していたら(2004年6月)、BMWやメルセデスのモデルと一緒に初期のクワトロのモデルも出てきた。やっぱり渡していなかったのだ。どこかで渡そうと考えている)