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KLAMMER Franz (AUT)

1953年12月3日 Mooswald(AUT)生まれ
SKI: Fischer →Kneisl →Blizzard
BOOTS: Dinafit
BINDING: Tyrolia


※1984年引退

Klammer. Val d'Isere 75 DH/1st Klammer. Wengen DH/1st
Val d'Isere 75 DH/1st Wengen 76 DH/1st

Klammer. Kitzbuhel 84 DH/1st Podium World Cup Ranking
General
1973//8th, 1974/ 5th, 1975/ 3rd, 1976/ 4th, 1977/ 3rd, 1978 5th,
1979/ 51st, 1980/ 33rd, 1981/ 40th, 1982/ 14th, 1983/ 18th,
1984/ 20th
Special
1974 DH/ 2nd, 1975 DH/ 1st, 1976 DH/ 1st, 1977 DH/ 1st,
1978 DH/ 1st, 1983 DH/ 1st.
World Championships
1974 St Moritz DH/ 2nd, K/ 1st
1978 Garmisch Partenkirchen DH/ 5th
1982 Schladming DH/ 7th
Olympic Games
1976 Innsbruck DH/ 1st.
1984 Sarajevo DH/ 10th
World Cup - 26 w. (25 DH, 1 K)
1. DH: Schladming 74, Val d'Isere 75, St Moritz 75, Val Gardena 75, Garmisch 75, Wengen 75, Kitzbuhel 75,
Innsbruck 75, Jackson Hole 75, Madonna di Campiglio 76, Morzine 76, Wengen 76, Kitzbuhel 76,
Aspen 76, Val Gardena 77 I+II, Garmisch 77, Kitzbuhel 77, Wengen 77, Laax 77, Val d'Isere 78,
Laax 78, Val d'Isere 82, Val Gardena 83, Kitzbuhel 84
K : Wengen 76.

 1970年代後半のダウンヒルシーンにおけるフランツ・クラマーの存在は他を圧倒していた。彼を越えたダウンヒルレーサーはいまだに存在しない。アルペンスキーという競技には他の多くのスポーツと違って世界新記録というものは存在しないがコースレコードというものはある。クラマーは世界の滑降コースのコースレコードを次々と塗り替え、まさに怒涛のような勢いで勝ち進んだ。ワールドカップ滑降で全25勝をあげ(他にコンビで1勝)、種目別の総合で75年から78年まで連続4年間滑降のタイトルを獲得した。さらに74年サン・モリッツ(SUI)世界選手権のコンビ、76年インスブルック(AUT)オリンピックの滑降で金メダルを獲得した。彼はオーストリア国民から「カイザー(皇帝)」の愛称で呼ばれ国民的英雄として親しまれた。ダウンヒルの人気が圧倒的に高いヨーロッパではクラマーの人気は揺るぎないものがあったし、ただただかっ飛ばし時には激しい転倒シーンを見せるスピード野郎の方にヨーロッパの子供たちはしびれた。クラマーの全盛期は74/75シーズンから77/78シーズンまでの4シーズンだったが彼はその後一度どん底まで落ちた。しかし不死鳥のよ うに蘇り、84年サラエボ(JUG)オリンピックを最後に引退した。いかにもオーストリア人らしい浮き沈みの激しいスキー人生を歩んだのである。

 フランツ・クラマーは1953年12月3日オーストリア、ケルンテン州ムースワルドに生まれた。彼の家はその地で牧畜業を営んでいた。クラマーがワールドカップにデビューしたのは72年12月、バルガルデナ(ITA)の滑降だが、その時は優勝したベルンハルト・ルッシ(SUI)に5秒14遅れの30位という成績だった。クラマーが初優勝を上げたのは73年12月、オーストリアチーム滑降トレーニング地のシュラドミング(AUT)の滑降である。このレースは彼のワールドカップ第12戦目だったが、その前に既に73年のサン・アントン(AUT)で2位、サン・モリッツ(SUI)とバルディゼール(FRA)で3位に入り並々ならぬ新人として無名ではなかった。

 シュラドミングのレースでクラマーは第2シードのゼッケン16番からスタートし、地元の大勢のファンの前で、並み居る強豪を尻目に見事劇的な初優勝を飾ったのである。これがクラマー神話の始まりである。このシーズンはガルミッシュ(BRD)、モルジン(FRA)、ウェンゲン(SUI)と3戦連続2位、キッツビューエル(AUT)で5位に入ったが、これらのレースで優勝したのはすべてローランド・コロンバン(SUI)である。クラマーはコロンバンに次ぐ種目別滑降総合で2位につけ、クラマー時代を予感させた。

 翌74/75年のシーズン、クラマーは一気に爆発した。開幕初戦のバルディゼールをコースレコードで優勝するや、続くサン・モリッツ、ガルミッシュ(アールベルグ・カンダハー大会)、ウェンゲン(ラウバーホルン大会)、キッツビューエル(ハーネンカム大会)、インスブルック(プレ五輪)と連勝し、続くメジェーブ(SRA)は落としたが、その後のジャクソンホール(USA)、バルガルデナ(最終戦)と連勝した。この年は全9戦あった滑降に8勝をあげ、以来「カイザー」の愛称で呼ばれるようになる。同一シーズンで3大クラシックレース(アールベルグ・カンダハー、ラウバーホルン、ハーネンカム)すべてを制したレーサーは67年のジャン・クロード・キリー(FRA)、69年のカール・シュランツ(AUT)、そしてフランツ・クラマーの3人だけである。

 クラマーはコースレコードを次々に更新したが、その最も典型的なレースは、ウェンゲンのクラシック「ラウバーホルン」大会におけるレコードである。75年1月11日に行なわれたこの滑降レースでクラマーは、それまでのカール・シュランツの持つ記録を一気に26秒41も短縮し2分35秒19のコースレコードで優勝した。しかも2位のヘルベルト・プランク(ITA)に3秒54という大差をつけての勝利であった。これは彼のベスト・アドバンテージとして記録されている。ウェンゲンの滑降コースはFIS公認コースとしては世界一長い滑降コースで全長4260m、標高差1012m。シュランツのレコードは69年にマークした3分01秒60で、これはキリーの成績を5秒16破るコースレコードだった。この時シュランツは「あまりにも速いスピードのため途中で何度も失心しかけた」とのべたが、これを26秒以上も突き放して平然としているクラマーという男の過激さが分かろうというものである。シュランツとクラマーの間には6年の開きがあるが、この間にレーシングマテリアルやコース整備は格段の進歩を遂げた。滑降はキリーやシュランツ、ルッシの時代の華麗でテクニカルなダウンヒルから、一変してスピー ディーで激しくデンジャラスな冒険の世界へと突入したのである。その先駆けとなったのがフランツ・クラマーだった。 

 クラマーはコースレコードを塗り替えただけでなく、当然のことながらレースにおける平均スピードも次々に塗り替えた。当時の最高スピードの記録を更新したのは75年1月5日に行なわれたガルミッシュの滑降である。クロイツェックのカンダハーコース。このコースは1936年のアルペンスキーが初めて参加した冬季オリンピックの際に使用され、その後54年の第19回のアールベルグ・カンダハー大会の際に使用されて以来その名を取って「カンダハーコース」と呼ばれている。そのときから現在でもコースプロフィールはほとんど変わってはいない。全長3140m、標高差820m。ゴール以外はまったく日が当たらず、暗く急峻で危険極まりなく、一般スキーヤーはほとんど入り込めないコースである。このコースでは1994年1月29日、オーストリアのウルリケ・マイアーがレース中に死亡したが、ダウンヒルコースとしては最も多くの怪我人を出しているコースなのである。クラマーはこのコースでまさに驚異的な平均時速109・42キロを記録した。

 そのクラマーも78年3月12日のラークス(SUI)での22勝目を最後に以後まったく勝てなくなった。「カイザー」の晴れやかな笑顔を見たのはそれから3年後の81年12月7日、開幕初戦のバルディゼールで彼が23勝目を上げたときである。(続く)
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