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KAIWA Toshihiro (JPN) 海和俊宏(三井物産スポーツ) WebKaiwa web Site
1955年4月24日 山形県・生まれ
SKI: Rossignol

※1984年引退

kaiwa. Garmisch 75 SL kaiwa. Kitzbuhel SL
Garmisch 75 SL Kitzbuhel SL
kaiwa. Wengen SL Kaiwa. Garmisch WM78 SL/7th
Wengen SL Garmisch WM79 SL/7th
Kaiwa. Kitzbuhel 81 SL kaiwa. Oberstaufen 78 SL/5th
Kitzbuhel 81 SL/13th Oberstaufen 78 SL/5th

kaiwa. Kitzbuhel Start World Cup Ranking
General

1977/50th, 1978/44th, 1979/71st, 1980/-. 1981/64th, 1982/93rd,
1983/94th, 1984/109th.
World Championships
1978 Garmisch SL/7th
1982 Schladming SL/12th.
Olympic games
1980 Lake Placid SL/DNF, GS/29th.
1984 Sarajevo SL/12th, GS/26th.
World Cup
5. SL: Oberstaufen 78.
7. SL: St.Anton 77.
10. SL: St.Anton 81.
13. SL: Kitzbuhel 81, Madonna 81.
15. SL: Madonna 83.

 海和俊宏選手がワールドカップに出場して来たのは1974/75シーズンからだった。その時のゼッケンは70番台だった。それが3年後の78年1月、オーベルスターフェン(BRD・当時)で5位に入賞したときのゼッケンは1番だった。わずか3年間で東洋の島国の全くの無名選手が世界のトップレーサーへと成長した。「ガラスの心臓」の持ち主と呼ばれた小柄でナイーブな彼が、世界の第1シードにたどり着くまでの努力はそれだけで1大ロマンの世界だと思うが、当時ワールドカップの報道は日本では多くはされなかった。

 1978年1月5日、西ドイツ・バイエルン州の小さな町オーベルスターフェンは暗雲が立ち込め、時折雨が落ちコースには霧が立ち込める空模様だった。ニューイヤーの休暇を返上しての地元住民の必死の努力で、コースはようやく保たれていた。インゲマル・ステンマルク(SWE)全盛の頃の当時は、どの会場も最大級の敬意を払ってこのスーパースターを迎えていたのである。この悪天候の中で行なわれた回転でステンマルクはワールドカップ25勝の新記録を作った。海和は、このスキー操作の微妙さと正確さを要求されるコースで1本目4位に付けた。しかし2本目タフなコースで外へ大きくふくらまされ、トータルで順位をひとつ落としたがワールドカップに於ける日本人最高位の5位に入賞した。これを世界に伝えたAP電は「最大の驚きはヨーロッパのサーキットで知られていない日本の海和の5位である」と表現したが、海和はすでに前年のサン・アントン(AUT)で回転7位の記録があり、十分にマークされる存在になっていた。7位という記録は76年1月のキッツビューエル(AUT)に於ける市村政美(現・冬龍門)のものがあるが、海和はそれを乗り越えて日本人最高位を達成したのである。レースが終わってプレスセンターに向かう途中で私は多くの子供達にサインをせがまれた。「俺は海和じゃない」と言っても彼らはサインをしろとせまる。日本人なら誰でも良かったのである。それほど彼らは海和の5位に興奮していた。ステンマルクの優勝よりも海和の5位の方が、地元の子供達にとっては新鮮で喜びに満ちていた。子供達に夢を与えたのはむしろ海和の方だったのである。

 同じ78年、ガルミッシュ・パルテンキルヘン(BRD・当時)で行なわれた世界選手権の回転で海和は7位になった。1本目6位に付けた海和だったが、2本目、地元のクリスチャン・ノイロイターに抜かれ残念ながら6位入賞はならなかった。銅メダルと4位とでは大きく意味が違うように、6位入賞と7位とでは大きな差がある。しかし猪谷千春氏(現IOC理事)のコルチナ五輪2位、バドガスタイン世界選手権3位以来、日本にとって20年ぶりのビッグイベントひとけた順位は高く評価されるべきだろう。「結果的に見れば、一発やれるという意欲が逆目となって、多少押さえ気味になったのかもしれない。2本目は自分本来のスキーが出来なかった。大きい大会だから、プレッシャーがなかったといえば嘘になる。もっと経験を積んで、どんな大きい試合でも常に入賞できるような実力を付けたい」。海和はたんたんと試合を振り返ったが、そのことで日本のマスコミの中には批判記事を掲載したところもあった。「技術的にはすでに完全に1流だが、体力的な面、精神的な面に課題が多い」と。

 後に海和は私にこんなことを言っていた。「自分のワールドカップにおける目標は第1シードに入ることだった。目標を表彰台においていたらもっと違った戦い方が出来たかも知れない。しかし当時の状況からするとそれが精一杯だった」と。現在に比べると当時の選手のサポートやチームの状況は、他国に比べるとまったくお粗末だった。スキー(ロシニョール)以外はすべて自分で買って整えていたのである。「トエニの着ていたスラロームウェアがほしくて、方々捜してようやく手に入れたときは本当に嬉しかった」と後に海和は語ったがこの言葉が当時の状況を良く現している。